大海原を抱きしめて
「あら、香乃。おはよう。どうしたの?」
「さっき知ったんだけど、今日って郷土館に団体さん来るの?」
何も聞いていない。
知っていたらもっとちゃんと上出来の化粧で出勤したのに。
少し寝坊したせいで、左右の目の大きさが違う。
誰にも会わないと思って、気にしてなかったけど。
「今日の団体?ちょっと待ってね」
柔らかく落ち着いた、穏やかな上野さんの声。
大人の余裕を感じて、保留音相手にため息をつく。
でもそんなことをしたって結局私のちっぽけさ、無力さが際立つだけで、うんざりした。
自分自身に。
世間では学校が始まっているらしい。
私も通っていた小学校のチャイムが村に響いている。
何も考えずに生きていた頃。
それでも毎日楽しくて、何もかもがなんとかなっていた。平凡だった。それで十分幸せだった。
大人になりたかったあの頃に戻れるなら、戻りたい。
面倒くさい感情なんて知らずに、生きていたい。
「もしもし、香乃?」
保留音が止まると、上野さんは私の名前を呼んだ。
ためらいがちに。