掌ほどの想い出
 あの日の朝も、いつもの時間のいつもの乗り口に立ち、私は祈るような気持ちでコンパクトを開くと、口元を飾るリップグロスを確認した。
 先週一週間、彼の姿が電車に無かった。週が明けても、やはり彼の姿は見当たらない。長期の出張だろうか。それにしても、今までで一番長い。
 転勤とか転職、これだけは考えないようにしていた。
――大丈夫。こんなに上手に塗れてるんだから、今日はきっと、乗ってるはず。
 そう自分を根拠の無い言葉で励まして、これから来る一時に備える。
 その瞬間、突風を纏って電車がホームに駆け込んできた。咄嗟に手を宛がって乱れる髪を抑えつける。折角のグロスに髪が絡みつくのだけは避けたかった。
 風が止むと、私の心情を悟ったかのように、ため息にも似たエアー音を伴って電車のドアが開く。
 その時、私の心臓が跳ねた。
 すっと伸びた彼の背中が目に飛び込んできたからだ。
 慌てて、彼から少し離れた反対側の手すり横に、体を滑り込ませる。彼と私の間に、数人の人が立ち塞がった。でも、それくらいの距離の方が、今の私には丁度いい。
 一時、彼のすぐそばに立った事があった。少しでも、私という存在に気づいてほしくて。でも、彼と視線を交えるような事は起こらず、まして彼が私を認識しているような様子も無くて、ただ悪戯に虚しさだけが身の内に積もっていった。だから今は、ほんの少し遠くから眺めるだけにしている。
 人垣の合間から見える彼は、相変わらず新書本に視線を落としていた。私は彼の方を意識しつつ、車窓へと体を向ける。
 快速の停車しない駅が、いくつも面白いように後方へと飛ばされて行った。
 ちらっと、また彼の方を伺う。でも、壮年の男性が広げるスポーツ紙に阻まれて、彼の姿は全く見えなくなっていた。がっかりしつつ、また車窓へと視線を向ける。ほんの少しの間に、さっきまでおっとりしていた外の景気が、すっかり高い建物や商業施設でざわついていた。そろそろ電車が地下に潜る。
 その時、『すみません』と低い声が聞こえて、誰かが移動して来る気配を感じた。男性が舌打ちをしながらスポーツ紙を退けると、そこには彼が居た。
 彼は動揺する私に目もくれず、そのまま真横に立つと、私の頭越しに手摺へと手を伸ばす。そっと見上げると、かなり背の高い人だと、改めて思う。私の周りにいる長身の人は、みんな何故か猫背の人ばかりだけど、彼は姿勢が良い分、余計に高く見えるのかもしれない。
 地上から地下へと景色が変わると、電車は更に速度を上げた。
 窓はとたんに黒い鏡に変わり、彼と私を並んで映し出す。頭一つ違う彼には、この車内、いや私は、どう見えているのだろうか。
 ぼんやり、そんな事を考えていたら、ふいに体がよろめいた。電車がカーブに差し掛かったらしい。
 私はみっともないほど慌てて手すりに縋り付くと、安堵の息をつく。その時、何か強い視線を感じて、私はガラスに目を向けた。
 しっかり、彼と目が合ってしまった。
 彼は無表情ではあったけれど、呆れているようにも見えた。次の瞬間、車窓が再び地下から地上へと景色を変える。そのとたんに、彼の姿は見えなくなった。あまりの恥ずかしさに顔を俯けていると、車内アナウンスが流れた。彼と私が降車する駅名だ。
 ふいに、誰かが私の肩をちょんちょん、と突いた。何が起こったのか、咄嗟には解りかねる私の目の前に、彼の左人差し指が車窓へと私を誘う。一瞬、見慣れないものが視線を過ったが、すっかり動揺している私には、深くは思い至らず、ただ、ふらふらとそれに倣う。
 でも、そこには、いつものビルの群が有るだけだ。
「そのまま、見ててください」
 彼の、その低い囁きに、頷きもせず私はひたぶるに外を凝視する。
「ほら、ここ」
 その時。
 ビルとビルの間に、きれいな三角錐を成す山の稜線が見えた。
「あっ……」
 それは、ほんの一瞬だけ姿を現す、掌に乗るほどの大きさの、富士山。
 夢なのか、と思った。
 でも確かにそれは、そこにきちんと存在していて、そして、今まで接点も何も無かった彼と私は、紛れもなく二人でそれを、その瞬間を共有していた。夢なんかじゃない。
 でも、現実は無常だ。
 目の前のドアが開くと同時に、彼と私は、背後からくる人並みに押し出されてしまった。
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