掌ほどの想い出
 その人は毎朝、同じ車両に居た。
 定位置とも呼べる、ドア横の手すりに身をもたれさせたまま、ちょっとだけ眉間にしわを寄せて、ある時はサイエンス系の雑誌を眺め、ある時はペンを片手に小難しそうな新書本に読みふける。
 スクウェア・フレームの眼鏡の奥の切れ長な目元は、いつも涼し気で落ち着きを払っている。そのせいなのか、彼が佇んでいるそこだけは、人いきれでむせ返る車内で揉まれている私とは、別世界なんじゃないかと思った。
 時折、句読点でも打つかのようなタイミングで、眼鏡のブリッジを左中指で押し上げる。おや、と思うその瞬間。彼は私の覚えた違和感に応えるかのように、左手でペンを持つと何かを一心に書き込んだ。
――左利き、なんだ。
 左利きの理系さん。私は、彼をそう呼ぶことにした。
 左利きの理系さんは、たまにシートに座っている時もあった。大概そういう時は、ひじ掛けに付随したテーブルの上にノートパソコンが置かれていた。仕事だろうか。見るとはなしに彼の手元に視線を落とすと、キーボード上を縦横無尽に迷いなく行き交うその指先は、ことのほか長く節くれだっていて、動きも見た目も男性的だ。そのくせトラックパッドを辿る親指の動きは妙に滑らかで、パッドの表面を舐めるようなその所作に、何故か背中のあたりがぞくぞくしたのを覚えている。
 もちろん稀に、座ったまま腕を組んで俯いている時もあった。
 その時は、たまたま隣の席が空いたものだから、私は勇気を振り絞って、誰よりも先にそこへと体を押し込んだ。嬉しさに緩みそうになる頬をぐっとこらえてちらと横目で隣を伺うと、彼は長い睫を伏せて、微かな寝息を立てていた。
 唐突に親近感が湧いた。
 いや、勝手にこっちが別世界とか異次元とか思っているだけで、彼は至って普通の、それでいて、普通よりも清涼感のある素敵な人、ではあるのだけれど。
 時折、ガクリと頭が落ちる。その度、彼はぼんやりした目つきで右腕のクロノグラフを確認しては、また浅い眠りに戻っていく。その様子がなんだか妙に可愛くて、私は小さく笑ってしまった。
 もちろん、彼が乗っていない時もある。たぶん出張だろうか。そんな時は、私が彼の場所に立つ。そうして、電車がある場所を通過する時、私は視線を車窓の外へと巡らす。
 そう、彼に関してはもう一つ、気になる事があった。
 それは、どんなに集中して手元を見ていても、軽く目を瞑ってうたた寝をしていても、電車がそこを通過する時だけ、彼は必ず視線を車窓へと向けるのだ。
 それは、彼と私が降りる駅の直前。
 もちろん、私も慌てて彼の視線の先を追ってみる。でもそこから見えるのは、代わり映えのしないビルの群ばかりで、一体何がそんなに彼の視線を独り占めしているのか、皆目見当がつかない。
 私はそうして、毎日、毎朝、彼の視線の先を焦れる思いで見つめていた。
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