凪の海
第1楽章
 50年の時を隔てた二組の男女の話である。話しは、それぞれのカップルの男女がまだ出会う前から始めなければならない
 まず一組目のカップルだ。彼らは1950年6月、場所は違えども、夜空に浮かぶ同じ月を眺めていた。
 男は泰滋。同志社大学の商学部2年生。彼が月を見上げている場所は京都・賀茂川の河原。そして女はミチエ。千葉女子高2年生。彼女が見上げている場所は、自宅の勝手口にある水場である。
 このふたりは、1945年の終戦を中学生と小学生の時代に迎えたのだが、住む場所の違いか、戦争の経験がまるで違う。
 終戦当時中学生だった泰滋は、京都に住んでいたおかげで空襲から命からがら逃げ回るという経験が無い。敵国の優秀な情報収集能力が幸いし、歴史的文化遺産の密集する貴重な古都は戦火から守られた。戦中は学徒動員で学業を休止して、郊外にある飛行機工場に赴き、資源としてなくなった鉄の替わりに木片で作られた部品を組み立てる作業に従事した。時には、戦場に駆り出された男達の替わりに、鉄道で機関車を動かしたりすることもあり、中学生でありながら器用にお国の役に立っていた。
 北大路橋西詰めの借家に、両親と住む泰滋は、憂鬱な時は、必ず賀茂川の河原にたたずむ。ひとりっ子である彼は、自身のプライベートを守れる2階の部屋を持っていたのだが、部屋の中にいるよりは、川幅の広い賀茂川のゆるやかな流音に耳を傾けていた方が、気持ちが落ち着く。
 広い水面を滑るように流れる賀茂川ではあるが、実は様々な音が重奏のように重なっている。一見水面は平面のようだが、川底は多様なあり様で水の流れに部分的な変化を引き起こす。泰滋はこの変化によって生じる水流の音の違いを聞き分けていた。いわば賀茂川の河原は室内楽を聞くコンサートホールのような存在であり、ここで水流が奏でる音楽に耳を傾けていると、心が落ち着くのだ。
 今日、彼の心を乱しているのは、彼が属する同志社大学新聞部の部員のひとりが、実は警察の公安部とつながっていたスパイであることが発覚したことに起因する。その部員が、不自然に中途退学した直後、その知らせが伝わってきた。今まで、盃を片手に肩を組んで、社会や政治について語り合っていた仲間がスパイだったとは。そのことがショックで彼は自分の気持ちを整理したかったのだ。
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