凪の海
 この忙しい毎日は、実は宇津木家の女系に延々と伝えられているDNA。つまり、『朝ごはんを食べながら、昼ごはんの準備を考え。昼ごはんを食べながら夕御飯の献立が気になる。』というせっかちな性格が作り出していたのだ。それゆえに嫁ぎ、夫を持ち、ましてやこどもまで生まれるとなれば、もはや忙しくない毎日など考えられない。結局自分の毎日は生涯を通じて忙しいにちがいないと、今では諦めるようになっている。
 泰滋と違って、ミチエのこの性格は、誰もが羨望するような資質とは言えないが、誰からも愛される資質だと言えるかもしれない。実際、ミチエはお義父さんからもお義母さんからもえらく可愛がられていた。

「ねえ、考えたんだけど…。」
 ミチエがとなりの布団で大の字で寝転ぶ泰滋に声をかけた。今床に入ったところだから、よもや寝てはいないだろうとミチエは問いかけたのだが、疲れきった泰滋はもう眠りの門に片足を入れている状態であった。
「ねえ、もう寝たの?」
 もう寝たのと問いかけるのは、起きろと行っているのと同じだ。泰滋は、名残惜しそうに眠りの苑に背を向けた。
「なに?」
「子供が生まれたら、自分のことをなんと呼ばせるの?関東風におとうさん…それとも京都風におとうはん?」
 ミチエは、大きくなったお腹をさすりながら泰滋に尋ねた。せっかちな彼女らしい質問だ。生まれる前からそんなどうでいいようなことが、気になってしかたがないようだ。
「どっちもあかん。そんな呼ばせ方はさせない。」
「じゃなんて…」
「パパ。」
「えーっ、嘘でしょ。じゃ私は…。」
「ママ。」
「…ちょっと、変じゃない…。」
「どうして?」
 同志社育ちの泰滋にはなんともなくても、下町育ちのミチエが躊躇するのもわからなくもない。昭和28年代、パパ、ママという呼び名は、欧米スタイルに傾倒しているブルジョアの家庭では使われていたとしても、庶民の実生活の中で実践されるには多少気恥ずかしい時代だ。
「とにかく、あすも忙しいし…もう寝ましょう。ママ。」
「ちっ、ちょっと待ってよ。いきなり始められても…」
「いざ子供が生まれた時に照れくさかったらアカンやろ。今から慣れてへんと…。」
「でも…困ります泰滋さん。」
「只今より、もう『泰滋さんと』呼んでも、返事をしません。」
「そ、そんな…。」
「もう一度言うよ。もう寝ましょう、ママ。」
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