凪の海
「『ヴォイス』か…。そのヒントになるかどうか解らないが、私が学生の頃、似たような言葉を聞いたことがある。『御魂声(みたまごえ)』というんだ。平家滅亡の折に、平家の倉から出てきた琵琶を奏でると、その琵琶から滅ぼされた平家の人々の声が聞こえてきたそうだ。」
「嫌ですわ、先生。平家の怨念とロドリーゴさんのお話しが繋がるわけがないじゃないですか。気味悪いからそんなこと言わないでください。」
 母親が首を横に振りながら師匠の発言に抗議を示す。もともと母は師匠と学生時代からの付き合いだから、会話もあけすけだ。
「いや、信子さん、話しは最後まで聞きなさい。」
 師匠が汀怜奈に向き直った。
「私が修行中の頃に聞いた話なんだが、福岡県久留米市に、あるギター工房があって、そこの職人が創るギターからはこの『御魂声』が聞こえてくるそうなんだ。」
 汀怜奈の目の色が変わった。
「先生、そのギターの『御魂声』を聞かれましたか?」
「いや、私が生まれる前の話しだし、…確か1960年頃にその職人も亡くなってしまい、その後はそんなギターは生まれていないようだが…。」
「そのギターは、今どこにあるのですか?」
「まったくわからない…。」
「探せば見つかるでしょうか…。」
「どうだろうか…。多くのギター演奏家たちが必死に探したけど、結局1台も見つからなかったようだ。」
「先生、そんなありもしないギターの話しなんかしたら、汀怜奈が混乱するだけじゃないですか。」
「そうだな…失言だった。忘れてくれ。」
 母親の小言に師匠も頭を掻きながら詫びる。汀怜奈は、しばしコップを見つめて黙っていたが、やおら顔を上げると師匠に向って静かに問うた。
「そのギターに名前はあるのですか?」
「ギターを売らんがための、宣伝用の伝説だったのかもしれないよ。」
「構いません。」
「えーっと…、職人の名前を取って橋本ギターと言われていた記憶がある。」
「さあ、もうその話しはこれくらいにして…。汀怜奈も疲れているでしょうから、もう部屋に帰って休みましょう。」
 母親は自ら席を立って、同席の人たちに自分に従うように促した。

 翌日、汀怜奈たちはDECCAのオフィスで契約についての打合せをおこない、母親はマネージャースタッフと汀怜奈を残して先に帰国した。汀怜奈が残ったのは、プレスリリース用の写真撮影を現地で行わなければならなかったからだ。
< 32 / 185 >

この作品をシェア

pagetop