凪の海
 その後、『マルイ楽器製造』という会社を立ち上げ、何人かの職人も雇い込んでギターを創り出していったが、橋本は、殺人兵器ではない平和的なギターという楽器づくりに安らぎを覚え、その魅力にのめり込む。経営に関してはまったく関心がなかった彼は、量産という発想がまったくなく、一台一台手造りする姿勢は崩すことがなかった。結局、終戦後のギターブームの波にも乗ることができず、1967年に永眠するとともに人手に渡った会社も、その5年後に倒産することになる。
 汀怜奈は、最後にそこで作られたギターが現在どうなっているかを聞いたが、資料室の職員はおろか商工課でも誰も知るものが居ない。諦めて市役所の外へ出ると、もう久留米の街は暗くなっていた。ホテルに戻り、いろいろと思案したが、とにかく次に自分ができることは、『マルイ楽器製造』のあった場所に行ってみることだと結論付けた。

 翌日、ホテル前に待機するタクシーに住所を告げて、連れてこられた場所は、閑静な住宅街だった。工房だから、うっそうとした林の中にあるのだろうと予想した汀怜奈だったが、あたりはアスファルトの道路と画一的な住宅が立ち並んでいる。
 たぶんこのあたりであろうとその場所に見当を付けたのだが、工房の面影などまったくない。あたりを見回して、古い民家を探すと、とりあえず玄関のベルを鳴らしてみた。
「はーい。」
 出てきたのは50代くらいの主婦であった。
「どなたですか?」
「あのう…。」
 サングラスにキャップを被り、デニムパンツの汀怜奈。このあたりでは見かけたことない来訪者に警戒を強めたようだ。
「モノ売りかいな。」
「いえ違います。お聞きしたいことがございまして…。」
 サングラスを外した汀怜奈。その長いまつげと上品な言葉遣いに多少安心したのか、主婦も多少警戒を緩めて表情を柔らかくした。
「おやま、あんたはおなごたいね。」
「はい、今だかって自分を男と思ったことはございません。」
 珍妙な言葉遣いに主婦が笑い出した。汀怜奈は自然に応対しているつもりなのだが、周りの人から訳も分からず笑われる時がある。それを汀怜奈はいつも不思議に思っていた。この時もこの主婦が笑う理由が解らない。
「で…聞きたいことってなんですたいね?」
「はい、このあたりに『マルイ楽器製造』というギター工房があったかと思うのですが…。」
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