【反省は】玉の輿なのにやらかした件。【していない。】
「美穂さん……」
私の渡した離婚届は、早春の少し冷たい風に吹かれて乾いた音をたてた。
「それ、書いて下さい」
彼は押し殺した声で答えた。
「僕は、あなたを生涯守ると誓いました。
僕は、嘘つきになるつもりはありません」
私は首を横に振った。
私は景久さんが好きだ。
いつの間にか、愛してさえいたのかもしれない。
だからこそ、もうこの家を出たい。
景久さんに、愛する女性との本当の結婚生活を送って欲しかった。そして、私は自分自身の恋が腐って醜い姿をさらす前に、自分の手で摘み取ってしまいたかった。
いねのように、与えられない愛をずっとずっと探し続けるような悲しい生き方をしたくはなかった。
「美穂さん。
僕はあなたに心から感謝しています。あなたが僕の巫女さまとなってくれなければ、この家では今も皆が少しずつ不幸だったことでしょう。
あなたは外からこの家の不幸に巻き込まれた立場なのに、見事にこの家の不幸を断ち切り、千年以上この家に巣食っていた神を天に還しました。
これはこの家の歴代の巫女さまも、当主もなしえなかったことです。
あなたは巫女さまとしても、この家の当主夫人としても素晴らしい人でした。
僕はそんなあなたにまだ何も返すことができていません。
だから、せめて僕があなたにこの深い感謝の気持ちを返す事ができる日まで、今しばらく僕のそばで待っていてくれませんか。
この僕の気持ちだけでは、あなたをここに留める理由にはならないでしょうか」
景久さんらしい、誇り高く清らかな言葉だった。
私は微笑んだ。
「私の、いえ、巫女の役目は終わったんです。
この北条家はいい家ですし、この家の人たちが好きです。
でも、……もう北条家は巫女を必要としてはいません。だって、巫女さまの仕えるべき神様はもうここにはいないんですから。
きっと前を向いて歩き出すときが来たんだと思います。
引き止めてくれる景久さんの気持ちは嬉しいですけど、お返しなんていりません。たぶん私にとってこの結婚は天に定められた運命だったのだと思います。だから自分の役目を果たしただけだと思っています」
「あなたが見返りを求めているとは思いません。僕がそうしたいんです。
あなたの記憶に残る僕の姿が、せめて世間並みの夫であるように、……名誉を回復したいのです」
それを聞いて、私は思わず笑ってしまった。
「あなたはいい夫でしたよ」
『お前さが、雅久さまじゃったら、これほどだたねぇおらにぁなんねがったに』。
悲しい一言を残して、いねは去った。
私は、いねが特別恨み深い女性だったとは思わない。
私だってもしかしたらいねのようになっていたかもしれない。けれど、そうさせなかったのは景久さんだ。
金で買った妻相手にも、この人は決して敬意を失わなかった。だから私は愛されなかったことに恨みを感じることなく、すがすがしい気持ちでこの家を出てゆけるのだ。
景久さんはそんな私の態度から何かを感じ取ったに違いない。小さく息を吐くと、顔をあげてまっすぐに私を見た。
「……そうですか。
それがあなたのご希望ならば、あなたを意図的に巻き込んだ僕の立場でこれ以上お引止めすることは、きっといけないことなのでしょうね。
お別れを言うのは辛いです。
あなたがこの家に入ってから、この家は以前よりもずっと明るくなりました。
……あなたがいないと、僕だけでなく、屋敷の皆が寂しくなります。
きっと僕は、有沢さんや、榊さんに叱られてしまうでしょうね」
私はそれには答えず、景久さんに頭を下げた。
「お世話になりました。
短い間でしたけど、……楽しかったです」
私はにっこりと笑った。
『景久さん。
離婚するのは私にとって、とても寂しいことだけれど、私は次の自分の役目を探しにいきます。
景久さんも、今度こそ義務にとらわれず、自分自身の手で幸せを探り当てて、迷わずそれをつかみとって欲しい。あなたが幸せになるために、足りないのはそれだけです。
頑張ってください。私も頑張るから』
離婚届の欄外に小さくかいたメッセージを、彼は受け取ってくれるだろうか。
最後にわざわざ手紙なんてものを残すのは未練がましく感じられ、恥ずかしかったから欄外に鉛筆で走り書きをのこしておいた。
景久さんの巫女として、それは、最後に彼に送るべき言葉だと思ったからだ。
今度こそ、自由に生きて。あなたの人生を生きて。
私と景久さんは、朱雀様のいなくなった二人きりの本殿で、静かに握手を交わした。