あのころ、
エピローグ
 「おーい」

 ぼんやりと声が聞こえた。

 「年越す前に逝っちゃう気ですかぁ?」
 「は?」

 ぱちりと目を開くと、もやがかった視界の中で、誰かがこちらを覗きこんでいた。
 ハッとした途端、鼻から水……いや、生ぬるいお湯が思いっきり入り込んできて、咳き込みながら飛び起きた。
 穏やかだった水面が波立ち、はじけたしぶきに「きゃあ」と悲鳴があがる。

 「濡れたじゃないですかぁ」
 「あぁ……悪い」

 頭がぼうっとする。眩暈がして頭を押さえた。

 「一時間も入ってたから、心配したんですよ。まさか、とは思ったっちゃけど、本当に眠っとうとは……あぶないじゃないですか」
 「一時間も?」

 なるほど。のぼせて当然だ。まだクラクラする。
 ぎゅっと瞼を閉じて眉間をもんだ。

 「二度寝しちゃだめですからね。さっさと出てくださいよ」

 叱るように言い残し、彼女は出て行った。それをかすむ視界の隅で見送って、俺は両手ですくった湯を顔にたたきつけた。
 こつんと頭を壁にあて、薄い雲がかかった天井を見上げた。
 懐かしい夢を見ていた気がする。あれからもう一年半が経つ──。

 風呂から上がって脱衣所に入るなり、待ち構えていた小柄な少女──に見えて、実際は二十一歳なんだが──にバスタオルをたたきつけられた。

 「なんだよ?」

 怒ってるぞ、との意思表示なんだろうが、軽くあしらい、俺はバスタオルを腰にまく。

 「卒業間近ですし、朝まで卒研で疲れてるのは分かるんですけど……お風呂で寝るのってほんっとあぶないんですよ!?」
 「お前さ、そろそろ敬語なんとかならないのかよ? 付き合って四ヶ月だぞ」
 「バイトんときの癖なんです。──って、話をそらさないでください」

 必死になって言い返すさまは、ほんっと子供みたいだ。一年前、塾講師のバイト先で初めて会ったときは、てっきり生徒だと思ったもんな。それで茶髪だったもんだから、

 ──お前の高校、髪染めていいのか?

 初対面でそう訊ねてしまい、第一印象はかなり悪かったらしい。
 背も小さいし、顔立ちも幼い。怒ってても全然迫力がない。逆に可愛らしくて頬がゆるんでしまうくらいだ。

 「なに、笑ってるんです?」
 「いや、別に」

 俺を睨みつける、子猫のようなややつった大きな瞳。風呂場の熱気に当たったせいか、ほんわりと赤らんだ頬。ウェーブがかった短い髪はしっとりと濡れている。着ているセーターやロングスカートも、ところどころしめっているようだった。

 「すげぇ、濡れてんぞ。真帆」
 「廉さんのせいでしょうが!」ムッとしてから、真帆は洗面台の鏡に向き合った。「メイクもぐちゃぐちゃ〜」
 「そうか?」

 何も変わってないように見えるのだが、真帆は洗面台に置きっ放しにしてある化粧ポーチを開けて、いそいそとメイクをし直し始めた。

 「化粧なんていいじゃねぇか。大晦日なんだし、別にどこ行く予定もねぇだろ。だらだらしようぜ」
 「そんなわけにはいきませんよ」鏡に映る俺を睨みつけ、ファンデーション片手に真帆はぴしゃりと言った。「仁さん、来とんしゃあけん!」

 タオルで髪を拭いていた手がぴたりと止まる。
 寝耳に水とはまさにこのことだ。

   *   *   *

 スウェットとジャージ姿で部屋に戻ると、すでにそこには『俺』がいた。部屋の真ん中に置かれたこぢんまりとしたコタツに入って、『俺』は我が物顔でくつろいでいた。

 「お邪魔してまーす」

 相変わらず、だらしなく伸びた髪。嫌味の無いさわやかな笑み。耳朶に光る、院に進むと決めた証。
 見慣れないものといえば、その黒ぶち眼鏡くらいだ。ガリ勉眼鏡も、こいつがかけるとオシャレに見えるんだから不思議だ。同じ顔でも、俺ではそうはいかないだろう。

 「いつから居たんだよ?」

 タオルを首にかけながら、仁の向かいに腰を下ろした。

 「二十分くらい前から、かなぁ。真帆ちゃんが出て、中に入れてくれたんだ」

 まあそうだろうな、とは思いつつも、すっきりしなかった。

 「真帆の奴、初対面の奴をほいほい勝手に入れてんなよな」愚痴るようにぶつくさ漏らしていた。「不用心っつーの」
 「初対面にしては見知った顔すぎたんでしょ」
 「まぁ……そうか」

 もっともなツッコミに、俺は恥ずかしくなって口ごもった。確かに、真帆には双子の兄がいることは話してあった。そりゃ、顔さえ見ればすぐに分かるか。

 「てかさ、電話したんだけど」

 仁は急に恨みがましく俺を睨みつけ、不満げに言ってきた。

 「なんで?」
 「なんでって……駅まで迎えに来てもらおうと思ったんだよ。ここ来るの久々だし、迷いそうだったから」
 「ああ、そっか。悪い。風呂はいってて気づかなかった」

 たとえ電話に気づいていても、迎えには行かなかっただろうな、と思いつつ、ぐちぐち文句を言われ続けるのも面倒で口だけさっさと謝った。
 仁はため息混じりに苦笑して、

 「どうせ、電話に出てたとしても、廉ちゃんは迎えには来てはくれなかっただろうけど」
 「……んなこたねぇよ」
 「ああ、そう」

 仁の疑るような目がうざったくて、俺は顔を逸らした。

 「で、なにしに来たんだよ?」
 「大晦日に来て、年越し以外に何があるんだよ。しばらく父さんに会ってなかったし、年越しは父さんの家で過ごすことにした……て、ずいぶん前に、廉ちゃんにもメールで知らせといたはずだけど」
 「そうだっけか?」

 まったく覚えていない。ここ最近、卒研でいそがしくて寝る暇もないくらいだったからな。今日が大晦日だってことも、朝、真帆が来て掃除を始めるまで気づいていなかった。
 呆れるような、責めるような仁の視線を感じて、俺はごまかすように「母さんは?」と話題を変えた。
 すると、「ああ」と、あからさまに仁の顔色が曇った。

 「遠野さんと……まぁ、いろいろプランもあるでしょ。俺も誘われてはいたんだけど、やっぱ、ちょっとね」

 仁はコタツに頬杖をつき、渋い表情でそっぽを向いた。
 遠野さん。母さんの婚約者──つまりは再婚相手であり、そして……元浮気相手だ。情けない話だが、俺は母さんが浮気していたなんて、つい最近まで……仁から母さんの再婚の話を聞くまで知らなかった。
 いつからだったか、両親の間で会話が減りだし、息苦しい雰囲気が漂うになっていた。高三にあがるころにはすっかりそれにも慣れていて、離婚すると言われた時も「やっぱりな」くらいで何の疑問も浮かばなかった。
 両親が仲が悪いのは俺にとっては当然のことで……その原因なんて、考えることも無かったんだ。
 今考えてみれば、両親は『機会』を待っていただけだったんだろう。俺たちが高校卒業するまで耐えていただけ。やってらんねぇよな。
 母さんの再婚が決まったとき、仁は過去の浮気の話を避けて俺に説明しようとしていたようだったが、悲しいことに、俺ももう子供じゃなかった。話を聞いていたら気づく。んで……『なんとなく』、悟った。──なぜ、仁が五年前、母さんを選んだのか。

 仁は昔から、まるで俺の行動を読んでいたかのような動きを見せることがよくあった。

 どうやってかは分からないが、きっと仁は母さんの浮気のことを離婚が決まる前から知っていたんだ。そして、分かっていた。自分が母さんを選べば、俺が父さんを選ぶ、と。
 仁が母さんを選んで東京に残ったのは、サキ目当てなのだ、と思いこんで疑わなかったあのころの俺は、どんだけ自分本位で鈍感だったんだろう。
 いったい、いつから……と、胃痛のようなものを感じながら、仁の表情を伺っていた。
 いつから、お前は母さんの浮気を知ってたんだ? ──きっと、一生、訊ねることはないだろう。それは、仁の『兄貴』としてのプライドを傷つけることになるのだろうから。

 「うまく……やってんのか? 遠野さんと」
 「うまくやらなきゃね」ぎこちなく笑って、仁は言った。「一応、形式上は俺の『父親』になるわけだし。それに……ややこしいことに悪い人じゃないんだよね」

 子持ちの人妻に手を出す男がか? 喉までこみ上げた渾身の嫌味を、苦い思いで飲みこんだ。
 ややこしいことに──冗談めかしてそんな言葉を挟まずにはいられなかった仁の心情は、痛いほどに分かった。

 「ところで、真帆ちゃんは?」
 「あ?」

 唐突に訊かれ、俺は間の抜けた声を出していた。

 「真帆ちゃんっていう、小柄でふわふわしたかわいい女の子で……」
 「うるせぇ、分かってるよ」仁の冗談を軽くあしらい、後ろにある部屋の扉をちらりと見やった。「メイク直しだとさ」
 「女の子だねぇ〜」

 目を細めて、おっさんのように感慨深げに言ってから、仁は「あ、そうだ」と慌てた様子で立ち上がり、ポケットからケータイを取り出した。

 「俺、ちょっとベランダで電話してくる」
 「わざわざベランダ出る必要ねぇだろ。寒ぃぞ」
 「いいんだよ、すぐ終わるから」

 仁がくるりと身を翻すと、聞き覚えのある鈴の音がした。仁のジーンズの後ろポケットから、鈴のついた手毬のキーホルダーがこぼれ出て揺れていた。
 誰に電話するのか、確信できた。
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