曖昧ライン
第1回・サークルの打ち上げにて
 酔った勢い、というものは、なかなかに怖い。


 
 高橋夏海、20歳になったばかりの大学1年生。
 浪人したことを引け目に感じていたが、サークルの仲間にも結構浪人生がいてほっとし始めていた5月の第一週のことだった。私の所属する合唱サークルの定期演奏会終了後の打ち上げで、私が20歳を迎えたばかりだと知った中野優太は、じゃあ一緒に飲もう、と声をかけてくれた。2浪しているという優太は、サークルで は皆のリーダーで、同年代の男子より大人っぽくてしっかりしていて、ひそかに私の憧れだった。身長は170を超えているだろうといった感じで、あの腕で抱き締められたら心地いいだろうなとふと考えたことがある。
「夏海、ビール飲んだことある?」
「いや、ほんとつい最近20歳になったから、お酒も、今日飲むのが人生で2回目というか……。」
「じゃ、飲んでみよっか。」
笑顔で優太が言う。
「……でも、ビールって苦いんじゃないの。」
「苦いよ。でもそれが美味しいの。」
「うわぁ、酒飲みだ〜!」
 優太とまともに口をきくのはこれが初めてで、私は少し気持ちが高揚していた。
「夏海が飲めなかったらあとは俺が飲んであげるから、試しに飲んでみなよ。そのあと甘いお酒頼んでもいいし。……勿論強制はしないけどね?」
「そう言われたらなぁ……じゃあ、飲んでみる。」
私がしぶしぶといった調子で言うと、優太はぱっと笑顔になった。
「よしよし。……あ、すみませーん、生、ジョッキで2つお願いします。」
注文を終えた優太が私に向き直る。高校時代ろくに男子と口をきいてこなかった私は、改めて、この憧れの人と向かい合わせで酒を飲もうとしている状況に緊張と興奮を覚え始めていた。手に僅かながらの汗をかいているのに気がついて、ハンカチで拭う。
「なんかさぁ、嬉しいな。」
優太の言葉に私ははっとして顔を上げた。
「え?」
笑顔の優太と目が合う。
「夏海と飲めるの。ほら、同年代は皆18でしょ?よくて19。未成年に酒は飲ませられないからね。同級生で飲める人がいて、嬉しい。」
「そうだね、私も、嬉しい。私、あまり飲めないかもしれないけど……。」
「うん、無理はしないでね。」
 店員からジョッキを受け取ると、彼はそれをテーブルに置いた。
「飲んでみ?」
「ん。」
促されて生まれて初めて口にするビールは、苦かった。予想通りの苦さでした。
「にが……。」
「あはは、夏海にはまだ早かったかな?」
「子供扱いしないでくださいー。一個しか違いませんー。」
「別にしてないよ。けど、ほんと無理なら飲まなくていいよ。俺ビール好きだから飲むし。」
「………………ん。」
 お言葉に甘えて、と飲みかけのビールの入ったジョッキを渡すと、
「いやお前半分以上飲んでんじゃねぇか!」
と、優太にめちゃくちゃ笑われた。
「な、なんかいける気がして?」
「あはは、偉い偉い。次は甘いの飲もうよ。ね?何がいい?」
優太がビールを飲みながら私の前にメニューを広げる。
「取り敢えずカシオレー?」
「あ、俺ピーチウーロン飲みたい。夏海、シェアしよ。」
「うん。」
 そうして二人で酒を3、4杯飲んだ。後半は無言でグラスを交換し合い、ひたすら飲み続けていた。
「……っはは、なぁ、俺たちやばくね?無言でずっと飲んでるとかガチで酒飲みじゃん。」
「た、確かに無言だったね……。」
「こういうのも楽しいけどさ。」
優太の笑顔に私の頬も緩む。なんだか幸せな気分。お酒が入っているというのもあるだろうけど、これは、それだけじゃなくて、目の前に優太がいるから、なの、かな。
「楽しいな、夏海と飲むの。また飲みたいよね。」
「うん。」
「いつがいいかなー。今月がいいよね。先延ばしにすると飲む機会失いそう。」
 そんなことを話しながら、気が付くとお互いの手や足を絡め合っていて、先輩方に「おーい、そこの酔っぱらい大丈夫かー?」と声をかけられた。優太が「あはは、酔ってまーす。主に夏海が!俺も酔ってますけど〜。」と、私の手を握る手に力を込める。先輩も笑いながら、「お前らもう別世界じゃん!二人の世界じゃん!いちゃついてんじゃねぇよ〜。」と言ってくれた。私はそれをぼんやりとした頭で聞き流していた。思ったより酔いが回ってきたらしい。
「ゆーた、」
「何、夏海、トイレ行く?」
「行く。」
「一人で行ける?」
「ん。」
「ほんとに?」
「そこまで酔ってないよ……。……ゆうた、ここにいてね?」
「いるいる、行ってらっしゃい。」
 ひらひらと手を振る優太を目で追いながら立ち上がった。普通に立ち上がれたし、多少ふらつくけど歩ける。ほっとした。
 トイレに入って一人になると、少しずつ頭が冷静になっていった。……先輩方の前で、酔って、男子と仲良くお手々にぎにぎして、ほっぺむにむにして……、…………。……ううん、忘れたい。恥ずかしい。
 そう思ったはずなのに、いざトイレから出て私に軽く手を振る優太を見ると気が緩んで、彼の傍に駆け寄って服の裾を掴んでしまった。
「夏海酔ってるね〜。」
「大丈夫?」
「私が送っていこうか?」
先輩が口々に言う。
「いえ、夏海は俺が送ります。俺が飲ませたので。」
「んー、そう?じゃあ、よろしくね?」
「えっ、待ってください、私、送られるほど酔ってません……。」
口を挟んでみたものの、先輩に、送られなさい、と押し切られ、送ってもらうこととなった。
 電車を二人で降り、先輩方に別れとお礼を告げる。
「でも優太、私の寮、本当に近いし……。」
「馬鹿、駅の階段降りるのにも心配なんだよ。」
「い、いや、歩けるよ?」
「いいから。……もう、手繋いでいいよ。」
 …………もう?
 私が怪訝な顔をすると、優太はため息をついて言った。
「だから、あそこはサークルの人がいるから駄目だったけど、ここならいいよって。夏海、ふらついて俺の腕掴んでただろ。」
 ……記憶にない。
 私が記憶を探っていると、優太が私の手を掴んだ。
「ほら、帰るよ。」
「え、あ、うん……。」
 …………うん?なんかナチュラルに恋人繋ぎされたんだけど……?……気にし過ぎかな。
「……ねぇ、優太?有難いとは思ってる、けど、あのね?ほんとに私そこまで酔ってないよ……。」
「知ってるよ。」
「え?」
「そんなの建前。こうやって二人で歩きたかっただけ。」
「……ふぅん。」
 頭に霞がかかったようで深く考えられない。
「そうだ、夏海。」
「ん?」
「明日、一緒に飲もうか。」
「明日?」
「また飲もうって約束しただろ。明日にしようよ。ね?」
「う、うん。」
「夏海が嫌じゃなければね。」
「嫌じゃないよ……。優太こそ、迷惑じゃないの。私、さんざん絡んじゃって。」
「可愛いもんだよ。というか、俺が誘ってるんだから迷惑なわけないだろ。」
 気が付くともう私の暮らす寮の前だった。私はそのことを優太に告げる。
「そっか。それじゃ、また明日、ね?送ってくれてありがとう。おやすみ。」
「ん、おやすみ。」
「……。」
「……。」
「……?何で帰らないの?」
「夏海が寮の中に入るの見届けるためだよ……。」
「え、あ、そうなのか!あの、ありがとっ。」
 顔が熱くなるのを感じつつ、私はばっと背を向けて寮の中へ駆け込んでいった。
 寮長さんに挨拶をして鍵を受け取り、エレベーターで自室の階へ行く。自分の部屋に入ると、思い切りドアの前でへたり込んでしまった。
 手を握りしめる。優太の手の感触。間近で見たあの笑顔。鼓動がうるさい。



 でも、私には忘れてはいけないことがある。



 私には、中学生のときから付き合い続けている彼氏がいる、ということ。
< 1 / 7 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop