【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
金吾
 宗易はすぐに家康のもとに向か
い、秀吉と秀雄の和睦が成立した
ことを伝え、大義名分のなくなっ
た無用の戦を止めるように訴え
た。
 機転のきく家康はすぐに理解を
示し、兵を退き秀吉と和睦するこ
とを受け入れた。
 しばらくして宗易から秀吉のも
とに、信雄からは長女の小姫、家
康からは次男の於義丸を人質とし
て送るとの知らせがあった。こう
して和睦は成立した。
 結局、家康は秀吉に踊らされ夢
を見せられただけに終わり、目が
覚めると秀吉の思い通りに進んで
いたことに気づく。
 気の合わない兄弟のようだが、
秀吉は家康を得て武家と公家の支
持を得ることができ、家康は発言
権を増し秀吉の後継者になる機会
を手に入れた。

 秀吉が家康、信雄と正式に和睦
を締結し上洛すると朝廷から従三
位、権大納言に叙任された。この
時、秀吉は財力にものをいわせ、
養子にした辰之助改め秀俊を権中
納言にするよう願い出た。
 権中納言になる条件の一つには
参議になった経歴があることだ
が、三歳の幼子を参議にするなど
前例があるはずもなく、そのうえ
参議を飛び越していきなり権中納
言にするなど途方もない願いは一
笑にふされた。しかし秀吉は秀俊
には信長が転生していると、これ
までの経緯を語り、信長ならば参
議どころか権大納言にもなってい
ると主張した。
 この時代の朝廷は祈祷などをし
て権力の維持をしていたため、霊
的な体験をあからさまに否定でき
なかった。まして破竹の勢いで天
下統一に向かっている秀吉の武力
を無視することはできず、何より
も秀吉の多額な献金は魅力的だっ
た。
 権中納言の「権」がつくのは正
員ではなく補欠のような立場とい
うこともあり、朝廷は秀俊を権中
納言とし左衛門督の官位も与える
ことにした。
 左衛門督の唐名が執金吾という
ことで、これ以後、秀吉とねねは
秀俊のことを金吾と呼ぶように
なった。
< 28 / 138 >

この作品をシェア

pagetop