【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
九州統一
 三月も終わりの頃、ようやく秀
吉は長門、赤間の関から豊前、小
倉に渡った。
 豊臣軍はすでに九州入りしてい
る兵を合わせて二十万人を超える
大軍となり、四月に入って間もな
く秀吉は筑前、厳石城を落城させ
た。また別働隊の大谷吉継、吉川
広家も日向、土持城を攻略して進
軍していた。
 秀吉は四月半ばにはすでに肥後
に進軍することができた。その後
も島津軍の占領地を肥後と日向の
二手に分かれて次々と攻略して
いった。
 五月に入って秀吉は薩摩、川内
の泰平寺に本陣を構えた。すると
間もなく島津義久がやって来て無
条件降伏を申し出た。義久はかね
てから秀吉の弟、秀長に調停を求
めて親しくなていたことからこの
苦境を切り抜けるため秀長に頼っ
た。それが功を奏し斬首を免れ、
島津氏は薩摩、大隅、日向の一部
を安堵された。
 この戦の間に大友義鎮は死去し
たため長男の義統へ豊後、日向が
与えられ、黒田孝高に豊前、鍋島
直茂に肥前、佐々成政に肥後、小
早川隆景に筑前、筑後をそれぞれ
所領とすることが決められ九州討
伐は終わった。

 秀吉はすぐに大坂城には戻らず
筑前、博多に滞在した。
 博多は対馬を挟んで朝鮮を臨む
地だ。
 秀吉はこの時、対馬の宗義智を
介して朝鮮王が秀吉に服従しなけ
れば出兵すると勧告した。これに
は二つの狙いがあった。その一つ
は秀吉が日本の支配者になったこ
とを誇示するため、もう一つは朝
鮮が日本を侵略する意図があるか
探るためだ。
 日本を侵略しようと企てそうな
国は他にもポルトガル、スペイ
ン、オランダがあった。これらの
国は大陸の明を侵略する拠点とし
て日本を占領できないか探ってい
たのだ。こうした動きはキリシタ
ン大名の松浦隆信や小西行長らの
外交情報や世界的視野を身につけ
た黒田孝高や石田三成らの進言と
して秀吉に伝えられていた。
 特にスペインは当時、最強の艦
隊を擁して占領政策をすすめ、日
本とも同盟して明を侵略したいと
申し出ていた。
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