【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
後継者、秀俊
 京で華やかな大茶会がおこなわ
れていたとき、九州、肥後では凄
惨な殺しが続いていた。
 一揆に参加していたのは百姓が
ほとんどでたいした武器もなかっ
たがそれでも鍋島直茂の部隊は手
を焼いていた。そこで追加派兵と
して小西行長、毛利輝元、小早川
隆景、黒田孝高らも向かわせた。
 この翌年には聚楽第に後陽成天
皇を迎える行幸を予定していたた
め一揆の鎮圧を急がせた。これに
対処するため九州での島津氏の勢
力を弱めるため上洛させていた島
津義弘を肥後に向かわせなければ
ならないほどだった。そうしてな
んとか一揆鎮圧のめどがつき、天
正十六年(一五八八年)四月の後
陽成天皇が聚楽第に行幸する日を
むかえた。
 この時、秀吉は織田信包、羽柴
秀勝、結城秀康、里見義康、長谷
川秀一、堀秀政、蒲生氏郷、細川
忠興、織田秀信、毛利秀頼、蜂屋
頼隆、前田利長、丹羽長重、織田
長益、池田輝政、稲葉貞通、大友
義統、筒井定次、森忠政、井伊直
政、京極高次、木下勝俊、長宗我
部元親らに皇室領への無道に対す
る処罰と羽柴秀吉に対する忠誠を
誓約した起請文を金吾侍従豊臣秀
俊宛で提出させた。これは秀吉の
後継者は養子の末男、秀俊にする
ということを意味していた。
 居並ぶ公家衆や諸大名は、驚く
者、眉をひそめる者、苦笑する者
などさまざまだった。
 誰もが秀吉の後継者は同じく養
子で秀俊の兄にあたり武勲もあげ
ている秀次だと思っていたので、
これは騒乱になるのではないかと
噂した。しかし秀次は平静だっ
た。誓約した者たちの名を見てこ
れが秀吉得意の宣伝だと気づいた
からだ。今まで順調だった天下統
一が最終局面にきて九州、肥後の
一揆で停滞してしまった。それを
挽回するための叱咤激励だと秀次
は受け取った。
 秀吉の後継者に選ばれた秀俊は
このことで生活の変化はなかっ
た。もともと秀吉の養子になった
時から厚遇されていたので周りの
秀俊を見る目もそれほどかわりは
なかった。ただ茶々が秀吉の側室
になったので会えなくなり、その
ことを寂しく思っていた。しばら
くして山口宗永という初老の家臣
が時々現れるようになり、日ごろ
の生活態度のあり方を説いては
帰っていった。
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