【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
拾丸
 秀吉は淀が生んだ嫡男を守ろう
と異常なほど神経を尖らせてい
た。鶴松丸が利休の呪いで死んだ
と信じている秀吉は生まれた子か
ら利休の呪いを取り払うため家康
の側近で陰陽道を極めた僧侶、南
光坊天海を頼った。そして天海の
託宣により、生まれた子は家臣の
松浦重政が拾ったことにし、名も
拾い子ということで拾丸と名付け
られた。
 家康はこれをきっかけに朝鮮侵
略の失敗で日増しに立場の悪くな
る秀吉を擁護して接近した。それ
は秀吉の影響力が弱くなり、関
白、秀次が正式に後継者になれば
自分の天下が遠のくからだ。ま
た、国替えで押し付けられた荒廃
している領地の開発が始まったば
かりで、それを秀次に邪魔された
くなかった。
 家康の擁護を秀吉は朝鮮出兵を
免除したことを感謝しているから
だと信じていた。

 文禄二年(一五九三年)九月
 秀吉は肥前、名護屋から京に帰
るとすぐに大坂城にいる淀と捨丸
に会った。その元気な様子に安心
した秀吉は十月には捨丸と秀次の
生まれたばかりの娘、菊を婚約さ
せた。これは秀次を後継者ではな
く他人として扱うことを意味して
いた。そのかわり秀次には日本を
五分してその四を与えることを約
束した。
 その秀次のもとには朝鮮に出兵
して所領が疲弊している諸大名か
らの不満が伝えられていた。こん
な時、秀長なら諸大名をうまくな
だめる一方、秀吉に弟としてわだ
かまりなく進言できただろう。し
かし秀次は秀吉の養子の立場と関
白という立場の板挟みになり、す
ぐには進言できないでいた。      
 秀吉は朝鮮侵略の失敗から逃げ
るように尾張、清洲城の家康のと
ころに行くなどこの年末は隠居し
た太閤として都合よく振舞った。
 こうして秀吉は先手を打つかた
ちで秀次を突き放したのだ。
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