【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
聚楽第の破却
 同月八日 
 秀吉は秀次を伏見に呼び木下吉
隆の屋敷に入らせた。そして弁明
の機会も与えず関白、左大臣の官
職を剥奪して高野山に追放し出家
させた。
 一時は内乱の危機もあったがこ
の程度で治まったのは三成、長盛
らの働きによるものだった。しか
し秀吉の怒りは止まることを知ら
ず、同月十五日に秀次への切腹命
令が出され、秀次はその日のうち
に切腹して果てた。そしてこれに
関係したとして処罰される者がい
る一方、家康は東方の統治、輝元
と隆景は西方の統治をそれぞれ任
されるなど賞された者もいた。
 秀次に加担したとされた伊達政
宗のようにうまく弁明して処罰を
免れた者もいた。しかし濡れ衣を
着せられた者はこれ以降、豊臣家
に不信感を抱くようになった。
 秀吉は怒りが治まって、よく考
えると自分のしたことの愚かさに
気づいた。捨丸を守ろうとする余
り、逆に災いを防いでくれる者を
喪った。そしてこの全ての元凶を
利休の屋敷がある聚楽第と考え
た。
(聚楽第に住む者は利休に呪われ
る。秀次がわしに刃向かったのも
利休に呪われたからじゃ。捨丸に
災いが及ばぬうちに始末しなけれ
ば)
 それから数日後、秀次の一族郎
党三十余名が処刑され聚楽第も破
却された。
 秀秋にも処分が言い渡され、所
領の丹波亀山十万石を没収され
た。しかしすでに山口宗永の働き
によって隆景の所領、筑前、筑
後、肥後の三十万石余りを秀秋が
譲り受け、隆景は本拠地の備後、
三原に移ることが決まっていた。
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