【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
天下暗雲
 秀吉の死が知らされず朝鮮にい
た日本軍は、加藤清正の部隊が蔚
山で明軍と交戦し、島津義弘、家
久の部隊が晋州の泗川城を攻撃し
ていた。また小西行長の部隊は明
軍に退路を断たれて順天城で籠城
しているという状態だった。
 すぐに家康と前田利家からこれ
らの諸大名に帰国の指示を出した
がこの時はまだ秀吉の死は知らさ
れることはなかった。
 先に秀吉の死を知ったのは明・
朝鮮連合軍のほうで反転攻勢に出
ようとしていた。
 急きょ、筑前、博多に着いた石
田三成、毛利秀元、浅野長政らの
効率的な軍船の手配で日本軍の撤
収は敏速に進められた。
 しばらく朝鮮水軍との攻防が
あったが年末までには帰国させる
ことができた。
 その後、前田玄以、浅野長政、
増田長盛、石田三成、長束正家の
五奉行と徳永寿昌、宮木豊盛に
よって朝鮮との和議が進められ
た。

 慶長四年(一五九九年)二月
十八日
 密葬がおこなわれて六ケ月後に
秀吉の死が世間に知らされた。こ
の時も葬儀はおこなわれなかった
が「秀吉公御葬式御行烈記」「太
閤秀吉公御葬式行列帳」などが記
され、秀吉の嫡男、秀頼が喪主と
なり勅使を迎え、北政所、淀を始
め、五大老、五奉行など二万人以
上が参列した大葬儀をあたかも実
施したように世間には伝わった。
 これは庶民が秀吉をよほど慕っ
ていた異例のことで、その死を悼
み、派手好きだった秀吉を偲んだ
ものだった。秀吉は庶民に良い部
分だけを見せ悪い部分を隠して最
期まで騙しとおしたのだ。
 そんな世間とは対照的に諸大名
は後継者が誰になるのかに関心が
移っていた。
 表向きは生前の秀吉に誓ったよ
うに秀頼を後継者と認めてはいた
が、ほとんどの大名がすでに豊臣
家を見限っていた。
 伏見城に集まった諸大名は秀吉
を追悼する簡単な法要をすませる
と、ある者は秀頼のもとに、また
ある者は徳川家康のもとに挨拶に
向かった。
 家康はかつて秀吉が信長の孫、
三法師の後見人になり天下を取っ
たように、秀頼の後見人として天
下を支配しようとしていた。
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