【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
秀吉の死
 秀吉に楯突いた秀秋は処分され
ることになり、所領が筑前、筑後
と肥前の一部三十万七千石から越
前、北ノ庄十五万石へ国替えと
なった。
 秀吉は筑前、筑後を三成の所領
とするように薦めたが、三成は今
の所領の近江から行き来するのは
困難で近江、佐和山城を守備する
適任者もいないという理由で辞退
した。そのため秀吉は三成を筑
前、筑後の代官とした。
 秀秋が国替えでいちばん辛かっ
たのはまとまりかけた家臣を減ら
さなければいけないことだった。
家臣たちの行き先に悩んでいると
三成が手をさしのべた。どうせ筑
前、筑後にも家臣が必要なのだか
らと、行き場のない家臣をひきと
り面倒を見ることになったのだ。
これに秀秋は大変喜び三成に恩義
を感じた。

 越前、北ノ庄はかつて秀吉との
戦いで敗れた柴田勝家が所領とし
ていた。その時の籠城戦で勝家と
その正室で信長の妹、お市の方が
自刃したいわくのある地だ。そう
した場所に信長の生まれ変わりに
され一度は秀吉の後継者に選ばれ
た秀秋が来ることになるというの
は皮肉なめぐりあわせだった。ま
た、お市の方の娘、淀が今は秀吉
の側室になり、生まれた子、秀頼
が秀吉の跡を継ごうとしている。
 その時がやってきた。

 慶長三年(一五九八年)八月
十八日
 秀吉は京、伏見城でこの世を
去った。
 六十三年間を生きぬき百姓の身
から関白にまで上りつめた。そし
て戦国乱世を終わらせ天下統一を
果たした男の最期は自らが引き起
こした朝鮮侵略の真っ只中にあっ
た。そのため遺体はひっそりと移
され「余が身罷ったら洛東阿弥
陀ケ峯に葬れ」との遺言に従って
密葬が行われた。
< 89 / 138 >

この作品をシェア

pagetop