…だけど、どうしても

4.


一瞬握られたと思ったら、手に残っていたのはこのホテルの一室の、カードキーだった。

「先行ってろ。」

紫苑は少しだけ屈んで耳元にかすめるようにそれだけ囁くと行ってしまった。
私は思わずその背を見送ってしまう。

今日も彼は圧倒的だった。パーティーの主役は彼だったのではないかと思うほど。
皆、こういう場に出てくるのは珍しい紫苑を捕まえては何か話し、彼は大物には可愛がられ、同年代には羨望の眼差しを向けられていた。

彼を見たのは初めてです、とさっき私に零した人もいた。

「ものすごく頭の良い人ですよね。正直、会う前はどうせ七光りなんだろうと思ってました。放蕩息子だったって、噂もあるし、色んな部署を転々としてるらしいって聞いたことはあって、無能なおぼっちゃまがたらい回しにされてるのかなとか…でもきっと本当に、武者修行してたんですね。冷静に考えたら、いくら社長の孫だからって、生半可な能力じゃ、あんなに大きな会社の経営管理部なんか統括できないですよね。」

「…そうなんですか。」

なんと言っていいかわからず、私はそう返すしかなかった。
紫苑は仕事の話をすることはあっても、そんな、苦労したとか、ハードな生活を送っていたなんて話は私にはしない。
付き合っていることを隠そう、というようなことを紫苑と話したことはなかったけれど、そんな話を聞いていると、やはりなんとなく黙っていた方がいいような気がした。

それなのに、こんなものを渡されて、私は少し戸惑ってしまう。時間をずらして部屋に入るということは、やっぱり私とのことは公にはしないつもりなんだろうけれど、それにしては徹底していない気がする。
何もこの後会うのなら、ここでなくたっていいし、こんなところでキーを受け渡すなんて、誰かに見られていたって文句は言えない。
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