真心を掌で包み込んで
真心を掌で包み込んで

 会社の後輩と思いがけず不倫をしてしまい、それが原因で仕事を辞めた。思いがけず、というのは、彼が既婚者だと知らなかったからだ。入社当時から指輪はしていなかったし、残業にも飲み会にも積極的に参加していたし、寝癖がついていたりネクタイが曲がっていたり革靴が汚れていたり。朝昼晩コンビニ弁当を食べていることなんてしょっちゅう。そんな生活を送る彼を、誰も既婚者だとは思わないだろう。
 栄養不足なのか疲労なのか、口内炎と肌荒れがひどいと嘆く彼を部屋に呼び、手料理を振舞った。彼は大喜びでそれを食べ、ほぼ毎日部屋に来るようになって、いつの間にか男女の関係になって……。告白はしていなかったけれど、付き合っているのと変わりない関係だと思い込んでいた。同僚たちもそう思っていたようで、わたしが作ったお弁当を食べる彼に「今日も中村の愛妻弁当かあ?」なんて言ってからかっていた、のに。彼はにっこり笑ってこう言ったのだ。
「おれの奥さん家事全般できないので、中村さんからのお弁当はありがたいです」
 絶句した。オフィスにいた全員の目が点になっていた。
 言えよ! 既婚者だって教えておけよ! 既婚者なら抱くな、アホか! つまりうちに来ていたのは食事のため、抱いたのは性欲処理かただの食事のお礼ってことか! いくら天然でも許されないぞ、ボケ!
 知らなかったとはいえ不倫は不倫。しかも噂が噂を呼び、いつの間にか三段跳びで飛んで行ってしまったらしく、気付いたときにはもうわたしは社内の既婚者たちを食いまくるみだらな愛人。面倒事に巻き込まれたくないのか同僚たちは口を閉ざし、そして天然の彼が擁護してくれるはずもなく、居づらくなって、もう辞める意外の選択肢はなかった。


 街角の小さなスーパーでレジ打ちのアルバイトを始めて二ヶ月。最近の楽しみは、レジに商品を通しながらその人の今夜のメニューを想像することと、常連さんたちの服装チェック、そしてスーパーでいちゃいちゃしたり喧嘩を始めたりするカップルの観察、という、二十七歳独身女としては残念な日々を送っている。
 最近気になっている常連さんはふたり。
 一人目はおとなしそうな清楚系の女性。いつも仕事帰りに来ているのかブラウスとスカート姿。土日は来店しないから一度も私服を見たことがない。しっかり自炊している人だということと、食材の量から一人暮らしだということは分かるけれど、それ以外のことが全く想像できない。私服を着たり髪が乱れたりすることはあるのだろうかと思ってしまうレベルだ。
 もう一人は疲れきった様子の男性。いつも閉店直前にやって来て、値下げされたお弁当やお惣菜を買っていく。顔色が良い日なんてなくて、来店しなかった日は、もしかしたら倒れてしまったのではないかと心配になる。シャツのボタンが取れかかっていたり、袖口に汚れがついていたり。女性とは正反対で生活感溢れる人だ。
 この二人が来店した日はなんだか嬉しくなってしまう。どちらも会計のあと「ありがとう」と言ってくれるし、今のわたしにとってはそれだけが癒しだった。
 そんな三月はじめのこと。
 閉店時間も迫ってきて、客足も途絶え始めた頃。何やら言い争う男女の声が聞こえた。どうやら男性は全額支払いたいらしいが、女性は割り勘にしようと言って譲らない。レジ前で堂々といちゃいちゃしたり喧嘩を始めるカップルはよく見てきたが、この二人は店の隅っこで話し合っているらしい。もう店内には片手で数えられるほどの人しか残っていないのに。しっかりしたカップルだ、好感が持てる。
 どんな二人なのだろうと声のする方を覗き込んだら驚いた。おとなしそうな清楚系の女性だった。なんてことだ、ついに彼女の私生活を垣間見た。しかも恋人と思われる男性はかなりのイケメン。女性が敬語を使っているところを見ると男性のほうが年上か。なんてことだ、おとなしそうな清楚系の女性が、年上でイケメンの男をつかまえた!
 しばらく話をしていた二人は、結局結論をじゃんけんで決めることにしたらしい。きれいなユニゾンの「じゃーんけーんぽん」が聞こえてきた。勝敗は会計のときに分かった。二人が揃って財布を出し、大体半分ずつお金をトレーに置いたのだ。彼女の勝ちか。私生活が全く想像できなかったおとなしそうな女性は、スーパーで恋人と言い争ってじゃんけんをするような微笑ましい人だった。でも会計が終わると、女性はわたしに向かって小さく頭を下げ「うるさくしちゃってごめんなさい」と言ったから、やっぱり真面目な人ではあるらしい。イケメンの恋人も優しい顔でにこっと笑って「次は話し合ってから来るね」と言う。わたしは思わずふき出してしまって、笑顔でふたりに頭を下げた。
 カウンターで商品を袋詰めしながら「何かさせてくれないと」「気にしなくていいですってば」「後片付けは俺がするから」「瀬戸さん卵は上です、つぶれちゃいます」なんて話す二人の背中を見つめながら、なぜだかほっとしていた。ここ二ヶ月で一番穏やかな時間な気がした。
 二人はどちらが荷物を持つかで揉めて、電柱ごとにじゃんけんで決めようと、仲良く帰って行った。羨ましいほど仲が良い。わたしも次の恋は、こんな微笑ましい付き合いができたらいいな、と願った。

 入れ替わるように入って来たのは疲れきった様子の男性だった。今日も相変わらず疲れている。彼は重い足取りでまっすぐお弁当コーナーへ歩いて行った。
 気になっている常連さんがふたりとも来店。今日は良い日だ。お寿司でも買って帰ろうかな、なんて思いながら、レジにやって来たお客さんに「いらっしゃいませ」と頭を下げた。その時。
「あれ、中村さん?」
 一瞬で現実に引き戻された。見ると前の職場で同期だった男が立っていた。部署は違ったけれど面識は勿論あったし、不倫騒動のことも知っているだろう。会社を辞めて二ヶ月。同僚たちとは一度も連絡を取っていなかったし、ばったり会うこともなかったし、できれば二度と会いたくなかったのに。まさか街角のこんな小さなスーパーで会うなんて……。
「へえ、仕事辞めて何してるんだと思ってたら、こんな所で働いてたんだ」
 男はにやにやとわたしを見下ろす。
「はあ、まあ」
 わたしは苦笑しながら商品をレジに通した。会ってしまったものは仕様がない。早く会計をして帰ってもらうしかない。でも男は金額を伝えても財布を出す気配がなく、ただひたすらわたしを見下ろしている。
「会社のやつと連絡取ってるの?」
「取ってないです……」
「じゃあ今どんな状況か知らないんだ」
「はあ、はい……」
「経理のやつら大変らしいよ。中村さんのせいで社内の評判落ちちゃってさ」
「はあ……」
 聞いているうちに気分は急速に降下し、作り笑いをすることもできず、お腹の前で両手を合わせて俯いた。部署のみんなには申し訳ないことをした。そして彼の奥さんにも。でも彼が既婚者だと全く知らなくて、悪気があったわけではないし、誘惑したわけでもない。既婚者だと知っていたら世話も焼かなかった。
「どうしてあんなことしちゃったわけ?」
「それは……」
「不倫は犯罪だよ? しかも後輩の天然さを利用して、最低だと思わない?」
「利用したわけでは……」
「じゃあなに、本気で奥さんから奪う気だったの?」
「いえ、そんなつもりは……」
「遊びで不倫なんかしちゃだめだよ。中村さん仕事はできたのに私生活はダメダメなんだねえ」
 もう言葉が出てこない。気を抜いたら途端に泣き出してしまいそうだったから、唇を噛んでどうにか堪えた。レジカウンターでこんな表情。店員としては失格だろう。
「大変なことになる前に、慰謝料とか払ったほうが良いと思うなあ。レジ打ちの給料がどのくらいか知らないけどさあ。彼も彼の奥さんも傷付いてるだろうし、少しでも誠意を見せたほうが俺は好感が持てるなあ。お金が無理なら土下座でもいいし、それくらいの」
「失礼ですが、貴方は当事者ですか?」
 同期の男の言葉を遮り、別の男性の声が聞こえた。驚いて顔を上げると、あの疲れきった様子の男性が、お弁当を片手に立っていた。近くで見ても、相変わらず疲れきっている。
「どんなことでも第三者が口出しするとややこしくなります。貴方が当事者でも関係者でもないのなら、そういうことを指示するべきではないと、僕は思います」
 彼は疲れきっているのにはっきり、すらすらとそう言った。同期の男は不機嫌そうに顔をしかめる。
「そういうあんたは当事者なの?」
「いえ、僕はただの客です」
「じゃああんただって口出す権利ないじゃん」
「その通りです。でも僕と同じように何の関係もない貴方が、いつも笑顔でレジを打ってくれる店員さんを、こんなに悲しそうな顔にしていいわけないじゃないですか」
「なんだと!」
「人を悲しませていい権利なんて、誰も持っていません」
 同期の男が真っ赤な顔で拳を振り上げたけれど、男性は微動だにしない。その拳が振り下ろされる、寸前。異変に気付いた店長が駆けつけてくれて、同期の男は会計もせず、せっかく選んで持ってきた商品も持たず、逃げるように帰って行った。
 お客さんに絡まれていたところをこの男性に助けてもらった、と店長に説明してから、改めて男性にお礼を言った。彼は特に気にする様子もなく「いえ」と首を横に振った。ごくごく当たり前のことだという表情だった。そればかりか、踵を返してさらっと帰ろうとするから、慌てて引き止めた。のはいいが、お礼の他に何を言えば良いのか分からない。ずっと見てました、なんてストーカーっぽい発言はできないし、気まずい現場を目撃されてしまったのだから、下手なことは言えない。悩んだ挙句、わたしの口から出た言葉は……。
「不倫をしたくて不倫したんじゃありませんから!」
 予想し得る発言の中で最も悪いものだった。
「はい?」
 男性はぽかんとしてわたしを見下ろし、そして「あはは」と声を出して笑う。いつもの疲れ果てた表情からは全く想像できない、柔らかくて可愛らしい笑顔だった。
「心配しなくても、僕は貴女をそういう目で見ていませんよ」
 目尻を下げたまま、男性はそう言った。
「ですから、またいつものように笑顔でレジを打ってください。それを楽しみに、ここに来ているんですから」
「え?」
 ぽかんとするのは、わたしの番だった。まさか最近気になっていた常連さんからそんなことを言われるなんて。わたしがこの人を見ていたように、この人もわたしを見ていてくれたなんて。
「あの、ええと、中村はることいいます。二十七歳です」
 どう答えていいか分からずとりあえず自己紹介をすると、男性は目尻の涙を拭いながら「橋本明寛、三十二歳です」と同じように答えてくれた。
「ここから徒歩十五分くらいの場所にある工務店で、建築士をしています」
「わざわざ十五分も歩いてここに?」
「はい、さっき言った通り、貴女の笑顔が見たくて」
 そんなこと言われたら……。恋も仕事も失って、残念な日々を送っている時にそんなことを言われてしまったら。ときめいてしまうじゃないか。
 火照る頬を押さえてお礼を言うと、男性――橋本さんはわたしの名を呼んだ。
「最近は仕事に追われてなかなか休みが取れないんですが、来月には落ち着くと思いますので」
「はい」
「そうしたら一度、食事に行きませんか?」
 そのお誘いを、断る理由なんてなかった。
 どうしようもなく泣きたくなって俯くと、橋本さんは「笑ってください」と、やっぱり笑顔で言った。
 泣きたくなったのは、決して悲しいからではない。こんなにどうしようもないわたしの人生でも、見ていてくれる人がちゃんといたということが嬉しかったからだ。わたしなんかの笑顔を見るために店に通い、助けてくれる人がいたことに、感動しているからだ。そんな人のために、明日からはもっともっと誠実にレジを打とうと思った。


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