ヒーローに恋をして
 今日から撮影がスタートする。本読みの時にはいなかった制作スタッフや技術スタッフも、放送局のスタジオに集まっていた。高い天井に取り付けられたいくつもの照明が並ぶ出演者を照らす。主演のコウは誰よりも先に紹介され拍手を受けていた。
 スタジオの出入り口近くでその様子を見ていた桃子は、ふっと視線を横に移す。
 
 スポットライトからはみ出した薄暗い壁際に、さまざまな機材が置かれている。いくつもの配線が生き物の触手のように伸びた音声機材やカメラ。そのチェックをしているスタッフとそのアシスタント。機材の間を縫うように歩くADの、ボディバックに通したガムテープがゆらゆらと揺れている。

 もう一度、監督の隣で自己紹介するコウを見る。大勢の人たちの視線がスポットライトのようにコウに注がれていた。彼はその長身で、臆することなく視線を受け止めている。

 前までは、桃子もあの視線の集まる方に立っていた。どんな端役でも、役者であれば薄暗い機材の後ろに立つことはない。
 
 もうカメラの前に立つことはない。昨日コウに言ったことだ。
 私はもう役者じゃない。
 とっくの昔からそうだと思っていたけど、それでも。
 
 コウが城之内となにか言って笑い合う。マリコが上機嫌にコウの肩を叩いた。どっとはじけるような笑い声。
 
 スポットライトの下が、こんなに遠いものだとはじめて知った。

「――ねぇ」
 機嫌良さそうに笑っていたマリコが、ふっと笑みを消して言った。
「あのお嬢ちゃん、まだ来ないの」
 ベテラン女優の声はよく通る。近くで名刺を交換し合っていた代理店の社員と事務所のマネージャーが振り返った。桃子もすっと出演者が並ぶ中を目でなぞる。
 
 お嬢ちゃんと言われた、ユリアの姿がそこにはなかった。

「近くの現場で録ってるって聞いてるんですけどねぇ」
 林が桃子の脇の出入り口を見る。他の出演者たちも顔を見合わせていた。

「これだからアイドルは困るのよね」
 マリコが両腕を組む。
「だいたい彼女の演技、まるっきり子どものお遊戯会レベルじゃない。どうしてあんな子もってきたわけ?」
 尖った言い方に、林が苦笑しながらマリコを宥める。彼がこの間プロデュースしたドラマはたしか、ユリアと同じグループのアイドルが出演していたはずだ。
 おとなの事情。世知辛くてくだらない、いつの世もこの世界を左右する重要なピースだ。
  
「あのお嬢ちゃんのレベルにあわせて演技するなんて嫌だからね。私は私のペースでやるわよ」
 その言葉に、あぁと納得してコウを見た。いつからなのか、コウも桃子を見ていたようだ。目があうとふっと唇の両端を上げる。たったそれだけのしぐさが、ひどく絵になった。

 馬鹿っぽくてうまい、と言われた演技と昨夜の演技。段違いにうまかったのは、コウがユリアのレベルに合わせていたからだ。

 いつだったか、天気待ちの時間にある俳優が言っていたことがある。アイドル作品にはあんまり出たくないんだと。
 どうしてですかと尋ねた桃子に、七十近いそのひとは苦笑を浮かべていった。
「セットはキャンバス、役者は絵の具ってね。みんなでひとつの絵を描くのさ。そのなかで、ひとつだけしょぼくれた色があってみろ。目立っていけないや。だから周りはそれにあわせて、似たような色を出すんだ」
 これが悔しくってね。そう言って皺の多い手で頬を撫でた。
「俺はもっと味のある色出せるんだぜって、言いたくなっちまう」

 そのひとの言葉を思い出しながら、唇を引き結んで腕を組むマリコを見た。ユリアのキャスティングの経緯なんて、マリコだって充分わかってるはずだ。それでも不満を感じるのはきっと、マリコがあの俳優と同じだからだ。

 演技が好きなんだ。そしてプライドをもってるんだ。

 スポットライトを浴びて凛と立つマリコを見つめる。

 私はあそこまで演技に真剣でいられただろうか?

 自分がしていたのは演技じゃない。ヒーローになるための真似事だった。隣にいるのがアイドルでも女優でも関係なかった。
 だってずっと、ひとりしか見てなかったんだもの。

 逸れかかった思考を断つように、だれかのスマホが音を鳴らした。城之内が、ジーンズの尻ポケットにねじ込んだスマホを手に取る。
「はいお疲れさま。今どこ? えっ」
 なんとなくその様子を見ていた周りの人たちが、問うような眼差しを城之内に向ける。けれど城之内は気にせず、視線をウロウロと四方に飛ばした。落ち着かなげな仕種は、城之内にしてはめずらしい。

 通話を切った城之内は、眉間に皺を寄せてつぶやいた。
「ユリアが怪我したって」
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