ヒーローに恋をして
「はいカット、はいオーケー!」

 城之内の声が響く。桃子は人差し指で水滴のように落ちた涙を拭うと、肩の力をぬいた。桃子を囲むように立っていた照明スタッフやカメラマンが移動する。代わりにメイクスタッフが桃子に駆け寄り、涙の跡をきれいに消してくれる。

 カメラアシスタントたちが機材から伸びるコードを素早く巻き取り、カメラを動かしていく。城之内が腕を振ってエキストラに指示を出す。林がテレビ局の取材に応えている。さまざまな人が入り乱れて、静まり返っていた体育館はざわめきであふれていた。

 今日はクライマックスのシーン撮影だった。実業団の存続を賭けて行った試合。ナオトは戦った。戦って、そして負けた。
 ナオトの嘆きを見て、「氷の女王様」ユキの目から涙がこぼれる。
 そしてユキは、自分のなかでナオトが特別な存在になっていることに気がつくのだ。

 忙しなく行き交うスタッフの向こうで、コウがこちらを向いた。目が合う。
 その顔に笑みが浮かんでいるのを見て、ホッとする。よかったよ。そう言われた気がした。

 コウがスタッフの間を潜りぬけながら桃子の方へと近づいてくる。
 とくり。胸の奥が響いた。

「コウ、ちょっと」
 振り返った城之内が声を上げる。コウは一瞬桃子を見て、少し残念そうに笑うと城之内の方へと足の向きを変えた。城之内の隣で、エキストラたちに頭を下げるコウ。その様子をぼんやり眺める。

「よかったじゃない」
 ふいに後ろから声をかけられ、振り返る。両腕を組んだマリコがこちらを見ていた。
「お疲れさまです」
 慌てて頭を下げると、
「調子戻ったみたいね」
 どう返せばいいかわからず、曖昧に頷いてもう一度頭を下げた。

「なにか変わったの、あなたのなかで」
 胸の下で両腕を組んだマリコが、品定めするように桃子の全身を見る。桃子はその視線を避けるように、もう一度コウを見た。コウはモニターを見ながら、真剣な顔で城之内となにか話している。

 コウに昔の話を聞いてから、半月が経っていた。
 あの夜、あの話を聞いて、

「……信じてみようって、思ったんです」

 うちの有能マネージャーは、俺のあこがれる役者でもあるんです。
 だから絶対、大丈夫です

 声が頭の中を回る。あれから、何度も。

 視線の先を追ったマリコが、ああというように頷いた。
「コウ君のこと?」
 いえ、と小さく首を振る。

「私自身を」

 コウが信じてくれた自分のことを、信じようと思った。

 昨日より、さっきより、うまく演じられるように。
 そう考えながら、カメラの前に立っていた。

 ふぅん。マリコは小さくそう言うと、手首をひらりと返して掌を上にした。半歩後ろに待機していたマリコのマネージャーが、素早く紙コップのお茶を手渡す。

「私さ、期待してるって言葉、あんまり好きじゃないのよね」

 マリコはそう言って、どこかシニカルな笑みを唇に乗せた。

「期待してるってことは、言う方になにかしらイメージがあるってことでしょ? なんで私があんたの思う通りにやらないといけないのよって、昔はよく思ってた」

 笑いながら、紙コップをまるでワイングラスのように軽く揺する。
「社長や監督と大喧嘩よ。なんて生意気な女だって怒鳴られてね」
「そう、ですか」
 突然の話にやや面食らいながら、相槌を打つ。
 マリコはニヤリと笑みを深めた。どこか妖艶さを感じる独特の笑い方。自分の魅力を理解している人で、芸能界は溢れている。

「だからあんたにも、そんなこと言わない。でもね、私はあんたの――トウコの演技、悪くないって思ってる」
 ぐいっとひと息で紙コップを煽ると、細い指先が桃子の肩を叩いた。
「後悔しないようになさい。エンディングロールのクレジット、最初に名前が出てくるって気もちが良いもんよ」

 どくん。鼓動がひとつ鳴った。
 
 エンディングロール。
 クレジット。
 
 言われたはじめて想像した。この映画が完成して、たくさんの人たちの目に映るところを。

 ひとの目に届くものを、つくっている。
 そのことに、ぞくりとした興奮が走る。
 
 がんばりたい。

 もう一度、城之内と打ち合わせをしてるコウを見る。彼らの後ろには、バスケのコート。
 
 たくさんのパスをコウからもらった。城之内からも、マリコからも。

 今度は自分の番だ。
 
 マリコが休憩を取りに出て行くと、
「おつかれ」
 後ろから声がした。振り返って驚く。
「宇野さん」
「様子見に来た」
 言いながら横に立つ。直前まで吸っていたのか、ふわりと煙草の匂いがした。
「どうだ」
 相変わらず、言葉数の少ない問いだ。
「撮影は順調です。コウも、私も」
 宇野がめがねの奥の目を、満足そうにわずかに細める。その宇野を、じっと見上げた。

 あいつ、もうじき契約終わるんだよ
 人気ないからな。もうすぐ契約期限来るから、それ更新しないで終わり

 コウから聞いた、宇野の言葉が頭を過る。
 しかたがない、そう思ってもやっぱり、胸は疼いた。
 
 優しいひと。
 ただそう信じていた。
 だから私はやっぱり、いろいろなことを考えてなかったんだと思う。
 ボランティアじゃあるまいし、売れない桃子を手元に置いておく理由なんてない。
 コウとユリアのスキャンダルなら問題ないと言い切った、あの姿が本来の宇野の――社長のものなんだ。

 わかってたはずなのに。
 それでも悲しく思ってしまう自分に、苦笑いする。
 
 目を伏せると小さな声で言った。
「たばこの匂い気をつけてくださいね。コウそれ嫌いなんで」
「においが嫌いなんじゃないよ、あいつ」
 その言葉に顔を上げると、宇野はどこか疲れたように、ふーと小さく息を吐いた。
「あいつは俺が嫌いなんだ」
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