ヒーローに恋をして
 ベッドサイドに置いた時計の針が進む音が、室内に響く。壁に背を預けて後ろから桃子を抱きしめるコウが、髪の毛を優しく梳いている。
 桃子は背中をコウの胸にぺたりと寄せて、リビングに向かって細く開いた扉の方を見ていた。明りの無い部屋は、海の底みたいに暗くて静かだ。

 ふいに思い出して、口をひらく。
「あこがれのって」
 掠れた声でつぶやいた。
「あれ、本当?」
 コウが髪を梳く音が耳元でサリ、サリと柔らかく聞こえる。
「そうだよ」
 気負いのない答えに、肩の力がぬける。宇野みたいに色々なことを省略して投げた質問。ちゃんと返されたことが嬉しくて、同時にまるで試したみたいだ、と気がついて心が小さく揺れた。

「桃子は、俺のあこがれの役者」
 髪を弄んでいた手先が桃子の背を撫でる。下から上へと撫で上げられて、おもわず身をよじった。水に潜ったあとみたいにとろりと疲れているのに、性懲りもなくもう一度戯れようとする気配に顔を顰めてみせる。

 思ってることが伝わったのか、コウはクスッと軽やかに笑うと桃子を包むように後ろから手を回した。
「さいしょテレビで見た時驚いた」
 桃子は声を聞きながら、桃子の臍の前で組んでいる両手の、その指の節をそっと撫でた。
「本物の、ヒーローみたいだった」
 その言葉に振り返る。
「ほんとに?」
「ほんとに」
 コウが唇をゆるく上げる。
「びっくりして、感動して、それからさみしくなった。ももちゃんが、すげぇ遠くに感じて」
 呼び方がまたももちゃんに戻った。その呼び名でさみしいなんて言われると、桃子まで胸がきゅっとなる。
「でも、あれからずっと憧れて、マネしてる」

 まね?

 桃子の手の甲に手を重ねたコウが、そのまま指の間に指を絡める。なんだかすごく恋人っぽい仕種だと、今さら思った。
「モデルやってるときも、イメージするんだ」
 言いながらコウが目を閉じた。

「桃子ならどうやるかなって考える。もっと堂々としてるんじゃないか、もっと楽しそうじゃないかって、そう思ってカメラの前に立つ」

 私なら……?

 コウの言葉をぼうっと聞いてると、目を開けたコウが桃子を見た。
「だから俺、桃子に代役任せるの全然不安じゃなかったんだ。まちがうはずない」
 薄闇の中、はっきりと笑顔になったのがわかった。ときおり見せる、少年のようなさわやかな笑み。

「ももちゃんは、俺のヒーローなんだから」

 じわ、と瞼の裏が熱くなる。
 
 こうちゃん。

 腕を伸ばして、引き寄せる。

 今夜ようやくこうちゃんと再会できたような気がしていた。でも抱き返す腕は強くて、桃子を簡単に抱きこんでしまえる。その強さが愛しかった。

 子どもじゃない。
 大人になったから、愛し合えた。

 このひとが、こうちゃん。
 桃子のこうちゃん。
 恋人のコウ。

「おかえりなさい」

 驚いたように桃子を覗きこむコウに、ふっと笑い返す。

 偶然の再会じゃない。あの日さよならを言った幼なじみは、もう一度出会う為に帰って来てくれた。
 向かい合わせになるように座りなおすと、小さくキスをしたコウが嬉しそうに笑った。

「ただいま」
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