ヒーローに恋をして
幼なじみのマネージャー
 ももちゃん。

 桃子(とうこ)のことを、そう呼ぶのはコウだけだった。
 
 こうちゃん。
 目の前に立つこの人が、こうちゃん。

「な、にしてんの?」
 くちから出たのはそんな間の抜けた問いだった。

 トゥルルル。

 事務所の電話がまた鳴る。電話を取った事務員が、さっきよりは慣れた口調で英語で答えている。その声をかき消すようにエンドレスで流れるアイドルの新曲。デスクに大量に積まれている、CDのサンプル盤と色校指定の付箋が貼られたポスター。また別の電話が鳴る。イヤホンをつけたアルバイトの子が事務所の公式ホームページを更新している。

 日常の光景の中に、大人になったコウが立っている。そのことが信じられなかった。
 だって十二年も経っている。

 コウはへらっと笑った。笑った顔は少しだけ昔の面影がある。でもちがう。こうちゃんはこんなに固そうな顎をしてない。すっと長い首についた喉仏。宇野よりも高い上背に、男物のシャツがよく似合ってる。あぁでも、柔らかそうな黒髪は相変わらず天使の輪っか。
 すっかり混乱していた。

「なにって、この事務所にお世話になるんだけど。モデルやめて、これからは俳優めざそっかなって」
 今日の夕飯はカレーにしようかな、というような軽いノリで言われた言葉。
 コウの言葉を脳内で改めて再生して、冷や汗が浮かんだ。
 俳優。これから自分が世話する、ひと。

 ――私がコウの、マネージャー?

「嫌です!」
 反射的にそう言っていた。宇野がトウコ? と声をかける。

 桃子は宇野をぐるっと振り返って、高級ジャケットに包まれた腕をおもいっきり掴んだ。
「私やっぱり無理です、マネージャーなんて」
 宇野が驚いて小さな目を見開くのもかまわず、勢いのまま言っていた。
「もうわかってるんです、潮時だって。もう芸能界、辞めようと思ってるんです」

 十年以上、離れられなかった世界。ずっと喉の奥で溜めていた宣言は驚くほどアッサリと出てきた。

 そうだ、とっくにわかっていた。ただの意地だけでしがみついていた場所。本当はもっと早くに手放すべきだったんだ。

「なにそれ」
 
 低い声が呟いた。宇野がとまどったように顔を上げる。桃子は宇野の両腕を両手でつかんだまま硬直した。
 低い声。宇野じゃなかった。

「そんなこと言える立場なの? ももちゃんて」
 声のする方を、ゆっくりと振り返る。

 コウが笑みを消した冷ややかな目で、桃子を見つめていた。
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