ヒーローに恋をして
 コウ君をうちの事務所にくれませんか?

 予想外の言葉に、頭の中が真っ白になる。固まる桃子を見て、ユリアはやや大げさに息を吐いた。
「ほんとになにも聞いてないんですね」
「いいかげんにしろよ」
 声を上げるコウを遮るように、ユリアは桃子に笑いかけた。
「恋人なのに、信用されてないんですね?」
「おい――」
 口を開くコウより早く、ユリアが言う。
「ね、恋人だったら、コウ君がもっと輝ける場所に行ってほしいと思いません? それとも、マネージャーとしては他所に売れっ子取られたら困ります?」

 舌ったらずに話すアイドルはどこにもいなかった。低く落ち着いた声で、ユリアは淡々と尋ねてくる。
 マネージャーとして、恋人として。
 コウのことをどう思い、どう扱いたいんだと。

「…………わたし」
 混乱し、体が震える。俯く視線の先に飛び込んでくる、週刊誌の見開きページ。突然撮られた写真。
 知らない。なにも聞かされてない。から、わからない。

 信用されてない?

 大きな咳ばらいが、ぼやりと沈みかけていた思考を引き上げた。

 応接コーナーのソファに座り、大きく足を開いた宇野がユリアを見ていた。
「引き抜きの件はハッキリ断ったよね」

 ユリアは宇野の視線を受け止めると、平然と笑い返した。
「そうですね、でも社長は納得してないみたいです」
「納得してもらわなくたってかまわない。俺はこの事務所以外でやってく気はないんだ。この前言ったろう」
 畳みかけるように言うコウに、おもわず顔を上げる。

「この前って?」
 ようやく声が出たと思ったら、問い詰めるような口調になってしまった。そのことがじわりと胸を焦がす。

 コウは桃子の胸中には気づかず顔を顰める。
「青葉さんの店行った時。前にも断ったのに、まだ話があるからって呼ばれて」

 俺のなかでは終わってるから。社長さんにもそう伝えておいて

 別れ際、コウがユリアに言っていたことが頭をよぎる。でも、なんで。
「なんで言ってくれなかったの?」
 声に責める色が滲む。そんな場合じゃないし、肝心なことはそこじゃない。わかってるのに、抑えられなかった。

「桃子?」
 驚いたようにコウが名前を呼ぶ。その顔が見れない。自分の、めちゃくちゃな気分が出てる顔も見てほしくない。 
  
 トゥルルルル。外線が鳴り響く。藤倉の声がこたえる。はい、その件については、お答えできませんので。はい。

「心配かけたくなかった。それだけだよ」
 桃子の肩に手を乗せてコウは言う。どこか必死なその様子に、わかってる、と心の内で呟く。

 コウは悪くない。言いたいこととか、そうした理由とか、ちゃんと想像できる。
 それなのに、どうして心は落ち着いてくれないんだろう。

「不安になっちゃったみたいね」
 ユリアが面白がるように口元に手を添えて笑う。コウは鋭い目つきで振り返ると、
「とにかく俺は、移籍するつもりはない」
 この話はこれで終わりだというように言う。

「じゃあこの記事、訂正しなくていいのね? 私がちゃんと言わないと、映画のイメージ悪いままじゃない?」
「スタッフみんな、君が怪我で降板したって知ってるんだ。わざわざ言わなくたって、どうせわかるだろ」
「口裏合わせてるだけって思われるよ。真実なんて、いくらでも曲げられる。わかってるでしょう」
 ユリアはどこか勝ち誇ったように笑う。さっき宇野が言ったようなことだ。宇野もそう思っているのか、眉間に皺を寄せて黙っている。

 ユリアのハイヒールが鳴る。桃子に近づくと顔を覗きこんで、
「私思うんだけど」
 朱色の口紅を塗った唇が、笑う。

「この映画で失敗したら、今度こそトウコさん芸能界にいられないね」
 
 その言葉に、コウの顔が強張った。ユリアは追い打ちをかけるように言う。

「やっと手に入れたチャンスだったのに。この記事ひとつで変なレッテル貼られて、また終わりなんてかわいそう」
「そんな」
 そんなことない。反射的に口を開いて、ふっと言葉が止まった。

『世間の人は彼女がヒロインの映画を見たいのだろうか。』

 ひどい記事。ひどい言葉。
 それなのに否定できない。

 見出しに大きく書かれたゴリ押し、の文字。たしかにそうだ。

 選ばれたことに甘えて、カメラの向こうにいる人たちのことを考えてなかった。彼らが、トウコのことをどう思うのか。
 
 エンディングロールのクレジット、最初に名前が出てくるって気もちが良いもんよ

 マリコはああ言ったけど。
 だれが見たいと思うんだろう?
 トウコの名前が、そこに出ることを。

 そんなことが頭をよぎって、声は途中で止まった。
 
 コウを見る。目があって、びくりと肩が揺れた。

 苦しそうな顔。試合に負けて膝をつくナオトのようだった。

 コウがふっと視線をそらした。俯いて、もう一度顔をあげるまで長い時間がかかったように思う。
 いつものまっすぐな眼差しは、桃子ではなくユリアに注がれていた。
「――ちゃんと」
 心の深いところから出すような、低い声。

「ちゃんとカメラの前で否定してくれ。電話や文章のコメントだけじゃなくて」
「コウ?」
 言葉の意味がわからず、いや、本当は嫌な予感に胸が鳴って、名前を呼んだ。
 
 振り返ったその目はやっぱり苦しそうで、だから桃子の胸もぐっと痛くなる。
「宇野さんすみません」
 コウが桃子を見つめたまま言う。
「俺、事務所辞めます」

 こくりと息を飲んだ。
 どうして? 移籍はしないって、言ったばかりじゃない。
 ――私のため?

「そんなのだめ!」
 叫ぶ桃子を宥めるように、コウがそっと頬に触れる。大事なものをなぞるように、指の腹が頬を撫でる。

「ずっと、桃子が好きだった」

 唐突な告白に目を見張る。
 いつ聞いても、愛しい言葉であるはずなのに。
 どうして、そんなに悲しそうな顔で言うの?

「守られてばっかなのが嫌だった。俺が守りたいって、そう思ったんだ」

 そんなことない。だって十二年前、桃子を守るために人生を変えてくれた。
 そのことをもう知ってる。そう言いたいのに、頬をなぞる親指がとても優しいから。声が喉の奥で震えて出てこない。

「桃子は、俺が守るから」
 手が触れてない方の頬に、かすめるように唇が触れた。

 あ、と思う間もなく涙が浮かぶ。
 まだなにも納得してないのに。
 泣いてしまったら、こうなることを認めるようで、そんなこと嫌なのに。

 頬にかかる手がするりと離れた。宇野がなにか言う。コウが言葉を返して、そのまま事務所の扉へと向かう。その後にユリアが続いて行く。

「こうちゃん」

 固まっていた桃子は、大声で叫んだ。

 行かないで。
 行かないで。

 コウは一瞬立ち止まって、直後扉に手をかけた。

 バタン。
 
 扉の向こうに消えていった後ろ姿が、十二年前別れた少年に重なる。
 あのとき、つらくて悲しくて。
 でも、今は昔よりもっと。

「―――――っ」
 閉じた扉を見つめたまま動けない桃子の目から、涙がぽたりと流れて落ちた。
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