航空路
(中編)高度一万千
 数十分経過するとシートベルト着用の文字が消え、同時に何人かの生徒が席を立った。
 トイレが我慢できないとの理由でだ。
 彼等が通り過ぎようとした時、
「いっぺんに行ったらやばいだろ? 乱気流で大怪我したニュースあったじゃん。お前等、壁に叩きつけられて死ぬかもよ」
 すかさず秀喜が皮肉っていた。
 お前たちは無知だ。そう秀喜が言ったように聞こえたのだろう。彼等も黙ってはいない。
「ばーか。落ちたら、全員死ぬんだよ。お前こそ、エコノミークラス症候群で死ぬぞ」
 秀喜に応戦したのはクラス一の行動派、宮本誠也だ。みんなでどこかに行こうと言い出すのは必ず彼であり、言うなれば幹事役である。
 が、この幹事――少々問題点も多く、自転車を盗んで補導された過去がある。性格も言葉遣いも荒くて、クラスで恐れられている存在でもあるのだ。当然、周囲の者たちの感情を理解しようとはしていない。ただでさえ、はじめての飛行機で不安なメンバーも多いのに、宮本の「落ちる」「死ぬ」などという会話で、機内は張り詰めたような空気になった。
 すると、そんな空気を打ち破るように、
「君は無知で困る。エコノミークラス症候群の発症例は日本人には少ないとされていて、予防すれば避けられる。手元のパンフレットに予防法が書いてあるだろう。それに落ちるなんて心外だね……君の知人で宝くじに当たった人は? その確率は一千万分の一なんだ。飛行機事故に巻きこまれる確率はそれ以下、ましてや落ちる確率なんて、限りなくゼロに等しい。ここまで説明すれば、無知な君にもわかるだろう? それ以前に、君が恨まれて殺される確率のほうが高いよ」
 秀喜の後ろの席に座っていたクラス一のウンチク王、工藤賢一が口を出した。
 その視線は秀喜ではなく、宮本のほうに向いている。宮本相手にここまではっきり言える者は、クラスで工藤しかいない。眼鏡を指先で上げる仕草は、いかにもインテリっぽい。
 父親が警察官であり、中学で生徒会長を務めた彼は、理論と学力の塊と紹介してもいい。
「そうかよ……お前が恨まれて死ぬ確率のほうが、俺が恨まれて死ぬ確率より高いのは確かだな。ここにハイジャック犯がいたら真っ先にお前、標的になるぜ。俺がこいつは刑事の息子って叫んでやるからな」
 殺気をまとって工藤に言った宮本は、往年のギャグ「飛びます」「飛びます」を言いながらトイレに足を向け、去って行った。
 宮本について行こうとした者たちは、秀喜の言葉で安全策を取ろうと決めたのだろう。
 トイレは一人ずつ行こうと、その場で話し合うと、互いの席に散っていった。
< 4 / 20 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop