御曹司さまの言いなりなんてっ!

 そして現在、10年分の月日の波に飲まれるように、彼に関する記憶もずいぶん薄れてしまった。

 結構イイ男だったと思うけど、本当のところは分からない。

 ファーストキスの相手を美化しようとする、自己防衛本能が無意識に作動しているのかもしれないし。


 それでも今でも繰り返し思い出すのは、あの綺麗な黒い瞳と、濡れて輝く彼の唇の色。

 それと連動して、口移しで飲んだジュースの味の記憶が口いっぱいに広がる。

 あの甘くて酸っぱい香りが鼻腔に甦って、なんともいえない複雑な気持ちになってしまう。

 
 そんな風に青春時代の思い出にしみじみ浸っていると、テーブルの上に置いたスマホが喧しく鳴動して、私の心を現実に引き戻した。


「はいはい待って待って。いま出ますよー」


 独り暮らしをしていると、ついつい独り言が多くなってしまう。

 ファンデーション片手に、私はパタパタとテーブルに駆け寄って急いでスマホを手に取った。


「もしも……」

『もしもし成実!? あのね、会社に入れないのよ!』


 同僚の瑞穂(みずほ)の甲高い声がキーンと耳に響いた。

 私は一瞬耳からスマホを離し、顔をしかめながら再び瑞穂に話しかける。
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