思いは記念日にのせて

 受かっている自信もないし、もうここには来ないかもしれないと言いかけた時、その男の人が呼ばれたようで入口の方に向かって軽く手をあげた。

「返さなくていいから」
「え……」

 傘を押し付けられるようにして、思わず受け取ってしまったわたしは間抜けな反応しか返せなかった。

「気を付けて帰りなね」

 再び笑顔を向けられて、言葉が詰まってしまう。
 そうしている間にその男の人は小走りで自動ドアの向こうに吸い込まれるように入って行った。

 お礼を言うこともできなかった。
 今なら追いかけてお礼を言えるかもしれない。だけどわたしの足はびくともしない。
 その後姿を見送ることしかできず、男の人はエレベーターホールに消えて行ってしまう。
 申し訳なさと胸の高鳴りが相まり、緊張のあまりため息を漏らして視線を傘に移すと、ぎゅっと握りしめていた傘の柄にイニシャルが刻まれているのに気づいた。

 ――T.S

 シモダ、何さんだろう。
 せめて名前を聞くべきだった。
 
 すでに姿が見えなくなったその人にお礼をこめて自動ドアに頭を深く下げる。
 
「ありがとう、ございました」

 何故か泣きそうになり、この気持ちがなんなのかわからないまま高そうな紺色のチェックの傘をさして駅に向かった。 
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