ウソ夫婦

狭い通路を、大きなカートを押しながら歩く。紙の匂い。この匂いは独特で、世界共通だ。翠の通っていたアメリカの大学でも、同じ匂いがした。翠はこの匂いが大好きで、必要以上にくんくん匂いを嗅いでしまう。

「ヒロ……」
ふと、ちゃんとした別れも言えずに離れてしまった、かつての恋人を思い出した。デートといっても、図書館で一緒に勉強するのがもっぱらで。レポート提出前なんか、大変なはずなのに、一緒にいられると喜んでみたり。

翠は立ち止まった。図鑑が並ぶ棚の間に立ち尽くす。正面窓から、蝉のなく声が小さく響いてくる。

彼は、翠が帰国していることを知らない。突然消えてしまったので、裏切られたと感じているかもしれない。

メガネを外して、こみ上げる涙を手の甲で拭う。

なんで、こんなことになってしまったんだろう。あんな横暴な人を夫にして、ここで隠れるように生きている。

ふと視線を感じて目をあげると、窓の向こうに見える軽自動車。窓がゆっくり開いて、颯太が顔を出す。

『仕事しろ』

口が動くのを見て、翠は悲鳴をあげたくなった。

助けてー、誰か!! あそこに変質者がいまーすっ!!
解放して! 干渉してこないで! 神様ぁーっ。

本当、早く別れたい。

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