ウソ夫婦


翠は髪を一つにまとめると、黒のタンクトップと、ボーイフレンドデニムを履いた。開いた窓から流れる風が、汗ばんだ翠の身体を乾かしていく。翠は部屋の真ん中で「うっしゃ」と気合を入れると、リビングへの扉を力強く開いた。

「おはようございます」
まるでここが戦場かのような、男らしい挨拶をかましてやる。

新聞を読んでいた颯太が、ちらっと目をあげて「おはよう」と答えた。銀縁メガネの奥の瞳が、笑っているように見える。
翠は今にも「わーっ」と叫びたくなる気持ちを抑えて、リビングへと足を踏み出した。

リビングと言っても、東京の賃貸物件だから、狭くて天井が低い。十畳ほどのリビング兼ダイニングには、毛足の長いグレーのラグが敷かれ、真ん中に折りたたみ式のシンプルな座卓。その周りに某ショップで売っている、一度座ったら二度と立ち上がりたくないという噂の、でかい座布団のようなグリーンのソファが置いてある。

そこに、颯太はすっぽりと埋まっていた。長い足を投げ出して、新聞を読んでいる。冷房の効いた部屋で、汗もかかずに、憎ったらしいこと、この上のない。

まるでここが、自分のうちみたいにくつろいで……まったく腹立たしい。

翠はその存在を無視するように、リビングの一角にあるキッチンへと向かった。キッチンに立つと、背後から「アイスコーヒー」と声が聞こえてくる。

とりあえず、無視、しとこう。

翠は自分のための朝食の支度を始めた。トースターにパンを入れ、フライパンに卵を割る。するとまた背後から「俺は、サニーサーイドアップ」という声。

翠の手が止まる。それから振り返り「自分の分は自分でお願いします」と、冷静を心がけて伝えてみた。ソファに完全に身体を預けている颯太の後頭部が見える。翠は全力でそれを睨みつけた。

颯太の後頭部が喋る。「俺は料理はできないよ」

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