朔旦冬至 さくたんとうじ ~恋愛日和~
当時朔はとにかく
よく怪我をする子どもだった。

木の上から落ちたり,
サッカーの途中で派手に
骨折したり・・・。
その度に中村先生には
お世話になった。

今は,体育科ということもあり,
1日1回は保健室へ来て
お茶を飲みながら
生徒のことから
プライベートのことまで
なんでも相談する。

まさに朔にとって
「母」のような存在である
彼女だが,
実は彼女自身も,
朔の人柄や
朔の教師としての
動きを信頼していた。




「なんですか,先生?」

「あのね,朔ちゃん。」

中村先生は
小学校の時と同じように
朔のことを
「朔ちゃん」と呼ぶ。

今日は生徒のことで
相談だった。



「・・・そっか。
 なるほど。」

朔は
 ・・・なかなか
 ヘビーな案件だな。
と思った。

朔の担任している学級の
女子生徒が
保健室に相談に
来たらしい。

いわゆる性に関する
問題行動というヤツだ。

恋愛に関することは
実は朔が最も
苦手とする分野である。

恋愛関係の経験が
ほとんどない朔にとって
それを理解しろといわれても
かなり・・・難しい。


「朔ちゃん,
 どうすべきだと思う?」

「え・・そうですねえ・・。」

 そんなこと,
 俺に聞かれても・・なあ・・。

正直,朔は
そう思っていた。

 中村先生の方が
 的確な答えをいつも出すじゃん。

とも・・・思っていた。

「とりあえず,
 女性の先生に話を
 聞いてもらいましょうか。」

考え込んでいる朔の様子を見て
中村先生はそうつぶやいた。

「そうですね。
 俺じゃ言いづらいだろうし。」

朔は,事の真相というよりも
教師としてどう動くか
というところで,
真っ当な返事をした。

結局,同学年の女性の先生に
話をきいてもらうことに
決定した。



「ああ,よかった。
 なんとか話が進みそうで。」

そういいながら中村先生は
コーヒーを淹れる。

朔はこの瞬間が
とても好きだ。
保健室ということを忘れ
ホッとするコーヒーの
香ばしい香りに酔う。

「ところで,
 最近由宇ちゃんはどうよ?」

「ああ,もうなんか
 どっちが育ててて
 どっちが育てられてんのか
 最近わかんないですよ。」

「あはは,由宇ちゃん
 しっかりしてるもんね。
 航くんに似たのね。」

朔の兄,航(わたる)は
朔よりも5つ年上だった。
航のことも
中村先生はよく知っていた。

朔が1年生に上がった時,
中村先生は,

「わあ,航くんの弟なの?
 顔がそっくりー!」

そういって朔の
頭を撫でてくれた。

そんなことを
朔はただ,
懐かしく思い出していた
だけだったのだが,
急に黙ってしまったのを
気にしたのか中村先生は,

「あ・・・ごめん。
 つらいこと・・・
 思い出させたわね。」

と謝った。

「あ・・いや,
 大丈夫。
 そうじゃないです。」

朔はあわてて否定しながら
由宇の話を続けた。

「でも時々思うんですよね。
 本当にこれで
 よかったのかって。」

「え・・?どうして?」

中村先生は,何とも言えない
表情で,心配そうに
朔の方を見た。

「・・・ああ・・・
 いえ,ちゃんとした
 生活習慣ってわけじゃないし。
 まともな朝ご飯だって
 食べさせてやってないし。
 ・・・というか俺が,
 起こしてもらってる方ですしね。

 施設とかで暮らした方が
 由宇にとっては
 よかったんじゃないかって。」

「ああ・・・
 それはないわよ。」

朔は中村先生が
そう言い切ったので
首を傾げた。

「やっぱりちゃんと
 『家族』と呼ばれる存在がいて
 愛情をもって育てて
 もらえる方が
 いいに決まってる。

 私はてっきり・・・。」

「え?」

朔が不思議そうな顔で
返すと中村先生は
笑ってこう言った。

「いや,朔ちゃんが
 恋人でもできて,
 由宇ちゃんと恋愛と
 悩んでるのかと思った。」

「え・・・
 ああ・・・それは
 心配いらないです。」

今度は朔がきっぱりと
言い切った。


 由宇より大切な恋愛なんて
 考えられない。
 きっと俺には
 その選択肢は無い。

それが今の朔の
正直な気持ちだった。

「生活のことは
 きっと大丈夫よ。

 少々のことがあっても
 家族の愛情を受けるのと
 そうじゃないのでは
 全然違うと私は思う。

 由宇ちゃんがまっすぐに
 育っているのは
 朔ちゃんのがんばりが
 あったからよ。」

「・・・そう・・ですかね。」

朔はその言葉に
半分「そうだよな」と思いつつも,
まだ悩んでいた。

由宇は確かにまっすぐ
育ってくれている。

だけど,どう考えても
他の5歳児より大人だし,
無理をさせているんじゃないか。

朔はそう思う気持ちが
日に日に強くなっていた。

そして・・・

由宇が俺を必要というより
俺が由宇を必要としているのかも
しれない・・・
これって俺のエゴなんじゃ
ないか・・・

そんな風にいつも悩んでいた。



だけど朔はいつも
中村先生や田丸のおばさんが
言ってくれる
「大丈夫」という言葉に
支えられてなんとかやってきた。

自信はないけど,今日まで
何とかやって
来られたことに,
周りの人たちや
何より由宇自身に
強く感謝していた。




夕方,由宇を保育園に迎えに行く。

朔は,基本的には
育児を優先させて
もらうように頼んでおり,
同僚たちのバックアップ
体制もなかなかなものだ。

それでも教員3年目の
終わりが近づくと
多少朔にも責任ある仕事が
増えてくる。

また,朔の能力や
人柄もあって,
彼の仕事ぶりに
期待する声が
大きいのも事実。

生徒指導案件で
放課後対応するときには
朔が必要となることが多い。

ここ数日はそんなことが
続いていて,
由宇を迎えに行って,
いっしょに夕飯をとった後
また,学校へ戻る・・・
ということが多かった。


「ごめんな,由宇。
 9時までには帰って
 来るから。」

「うん,だいじょうぶだよ,
 さくちゃん。
 おふろもはいったし。
 さきにねてるね。」

「ああ。おやすみ。
 行ってきます。」

そういって家を出る。

「ごめんな・・・由宇。」と
心の中でつぶやきながら。

朝の件のことで
生徒指導部の先生たちが
集まっていた。

「ああ,朔ちゃん。
 結局ね・・・。」

中村先生は
事の成り行きを
朔に説明した。

中村先生は
女子生徒を説得して
母親と一緒に
産婦人科を受診させた。

結局,女子生徒は
妊娠はしておらず,
本人が不安に思いすぎて
生理が止まっていたらしい。

付き合っていた男と
そういう関係になったんだけど,
結局別れてしまって・・・

しかもその間に
何人か関係があったらしく,
もし妊娠していても
誰が父親かわからない状況で・・

生理が来なくて
不安だったらしい。

これがこの案件の顛末。


朔は無意識に眉間に
しわを寄せながら
中村先生の話を聞いていた。

 とりあえず,
 結果オーライだけど
 どうしてそんなことに
 なってしまうのかな。

そんな思いを強く持った。

朔の頭の中は
「仕事だ」と
思いつつも・・・
由宇のことを思い出していた。

 由宇は・・・
 みんなに愛されてこの世に
 生を受けたのに・・・
 こんなつらい状況で・・・

 由宇の妹になるはずだった
 義姉さんのおなかに
 いた子なんて,
 みんなが望んで望んで
 祝福されて生まれてくる
 はずだったのに・・・
 生を受けることなく
 天国へ逝ってしまった。

 なのに・・・
 せっかく生を受けたのに
 望まれていない状況で
 失わざるを
 得ない命があって・・・

 世の中・・・
 不公平だよな・・・。

そう,考え込んでいる
朔の表情に気付いたのか
中村先生は

「さあ,じゃあ
 朔ちゃんは由宇ちゃんが
 待ってるから帰って。」
とみんなに聞こえるように
言った後・・

朔の耳元で

「明日,朝
 保健室に来て。」

と囁いた。


朔が家に着くと
由宇はふとんに入っていたけど
まだ起きていた。

「あ,さくちゃん。
 おかえりなさい。」

「ただいま。
 まだ寝てなかったんだな。」

「うん。」

由宇はそう言って
ニッコリ笑った。

そして朔が帰ってきたことに
安心したのか,
大きな欠伸をした。

朔は,少しだけ安心した。

こういうところは
5歳児らしい。

「さあ,もう遅いから
 寝ないとな。」

「うん。おやすみ。」

「おやすみ。」

朔は,由宇が寝るのを
見届けた後,
そっと電気を消して
隣の部屋へ移動した。

パソコンを開いて
仕事を始めるけど,
1時間に一回は
心配で,由宇の様子を
見に行った。

1時間後,由宇は
すっかり眠っていた。

由宇の寝顔を見ながら
朔は今日の出来事を
思い返していた。

 兄貴や義姉さん,
 そしておふくろも・・・
 
 こんな可愛い由宇を
 残していくなんて
 さぞ,心残りだった
 ろうな・・・。

朔は由宇の
頭を撫でながら
少し涙ぐんでいた。

 そう考えると俺は
 こうやって由宇のそばに
 いられるのだから
 幸せなのかもしれない。

そんな風にすら思えた。

 こういう気持ちって
 父親が抱く
 感情なのだろうか
 母親が抱く
 感情なのだろうか・・・

朔は不思議な
気持ちになっていた。

朔は,恋愛も結婚も
すっ飛ばして
「父親もどき」になった。

だからわからないことが
たくさんある。

でも,だからこそ
わかることもほんの少しだけ
あるのかもしれない。


朔は,今朝,
中村先生が
言っていたことが
ちょっとだけ
ひっかかっていた。

 俺はこのまま
 恋愛をせずに一生を
 終えるのだろうか。

由宇を育て始めてから
そんなこと
考えたことすらなかった
朔にとって
新たな悩みの始まりだった。

だけど,その時点での
朔の思いは,
恋愛には全く傾かなかった。

 由宇が受け入れてくれる
 年齢になったら・・・
 恋愛するのもありだな。

そんなのんきな思いと
ともに・・・

 今は由宇に嫌な思いをさせたり
 傷つけたりするくらいなら
 恋愛なんてしない。

それくらい朔にとって
由宇は大切な存在だった。

そして,由宇は
朔にとって
兄夫婦や母と
つながっていられる
絆・・・のような存在だとも
感じていた。

由宇を守ることが
朔の今の使命であり
生きがいでもあった。

今の朔には・・・
恋愛のことなんて
考える余地は無かった。
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