妖しく溺れ、愛を乞え
 お盆に乗せて、給湯スペースを出る。湯飲み足りてるよね、大丈夫かな。数えたけど……念のため5つにすれば良かったかな。そんなことを考えてる間に会議室へ着いていた。

 お盆を抱え、ノックする。ゆっくり、なるべく音を立てないようにドアを開ける。もう打ち合わせに入っているはずだから。

「失礼致します」

 その声さえ騒音にならないように。

 会議室の隅に、先週あたしが活けた薔薇が微笑んでいる。あたしはその子達に向かって少し微笑みかけて、打ち合わせの場にお茶を配った。


「じゃあ出発は10時……半かな。専務と部長は支店長と一緒のお車に」

「僕と部長の荷物は……」

 え、いま専務って言った? 専務まで来てるの? あのおじいちゃん……え、おじいちゃん? あたしは思わず、会話に聞き耳を立ててしまう。お茶をお出ししたらさっさと戻らないといけないのに。

「僕と部長は帰りチェックインしたいんですが」

「承知いたしました」

 僕と部長? 「僕」は専務か。集団に「おじいちゃん」は居ない。いま見ても居ない。うちの会社の、あのおじいちゃん専務。え、専務って誰? 僕?

 あたしは「僕」と言った人物を見た。さっきはろくに見もしなかった。

「駅前のモントレです」

「専務、急な出発だったのでご準備大変だったでしょう」

「いえ……変わったばかりで仕方の無いことです。分からないので教えてください」

 専務、若返ってる。白髪のおじいちゃんだったのに、誰これ。白髪じゃない。

 変わったの? あたし、今日の予定どころか人事のことも忘れてるの? ていうか、人事あったの? 混乱している。うそ。なにがなんだか……。

「どうした? 春岡くん」

「あ……いえ、すみません」

 無関係なのにこの場に留まっていてはいけない。でも……。

 すっと「専務」が立ち上がる。背の高い、黒髪の。振り向いて、手を差し出す。

「尾島です。よろしく」

「え」

「はじめまして」



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