アクシペクトラム
3.お問い合わせはこちらへ
龍宮さんにすぐに電話を切られ、力の抜けた私の手から名刺がひらりと落ちる。
結局、一度会っただけの“佐藤”なんて、そうそう簡単に覚えてもらえているはずがなかったのだ。
「佐藤くん、A会議室にお茶もってきてくれる?」
がっくりとうなだれていると、部長が後ろから声をかけてきた。
こんな時でも仕事はやってくるのだ。
「はい、ただいま…」
「頼むね。先方は一人だから」
用だけ告げると、部長はそそくさとフロアを出て行った。

部長の分と合わせて二つのお茶を運んでいると、何やらA会議室の前で女性社員が集まっていた。
「今日の取引相手カッコ良くない?」
「私、名刺もらっちゃおうかな~」
次々と黄色い声が耳に入ってくる。
その声が中まで聞こえたのか、ガラスのドア越しに部長が女性社員たちに厳しい眼差しを向けた。
「やばい、部長が睨んでる…行こ行こ」
部長のひと睨みでドアの前の団体がバラバラにいなくなった。
あんだけ見に来るって、よっぽどカッコイイのかな…
「失礼します―…」
えっ…!
会議室に入った私はその場で固まった。
部長の前のソファーに座っていたのは、シルバーの縁取り眼鏡でビジネススーツをクールに着こなしている、あの龍宮さんだった。
そ、そんな…だってさっき商談があるって…
まてよと会議室の状況を素早く見渡す。
「それで以前お話した件ですが…」
龍宮さんが鞄から資料を取り出し、部長に提示する。
「あぁ、それなら龍宮くんの言った通りで構わないよ」
部長がにこやかに相槌を打つ。
まさに、いま目の前で商談が行われていた。
どうしよっ、さっき電話したから気まずい…
私は震える手でお茶をテーブルに置く。
「………」
一瞬、龍宮さんの視線が私に向けられた。
「ありがとうございます」
普通にお茶のお礼を言われただけで、すぐにまた部長との会話が再開された。
あぁ…そっか…
たった一度会っただけなのに、私は何を期待していたのだろう。
龍宮さんにとって今の私は、ただの取引先の会社の女社員でしかないのだ。
そのまま龍宮さんを見ないようにして私は会議室を出た。
廊下と会議室を隔てるガラスドアがいつもより重かった。

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