ボロスとピヨのてんわやな日常
 車の排気ガスたちが通り抜ける橋を渡り、右折して川沿いの道を進んでいくと、川に降りることができる階段が見えてくる。
 いつもは、川が発する独特な水の臭いとか、川端に生える草の香りとかがするのだが、今日だけは違っていた。鼻を突くような、焦げた臭いがしてきたのだ。
 そういえば、三日前に事件が起きて、火をつけられたりしたと千代丸は言っていたな。と、歩きながら思い出す。
 階段を下りると、千代丸は橋の下に向かって歩いていく。向かう先には、青いビニールシートで覆われただけの、粗末なテントがいくつも並んでいた。
 テントに近づいていくと、今度は焦げた臭いとともに、生活臭がしてくる。
 湯が沸く香りと、食べ物を焼いている香りだ。これは、タマゴ焼きの香りかな。思わず、生唾を飲みこんでしまった。
 生活臭がしてきた源は、青いビニールシートで覆われたテントの前だ。
 そこではひとりの男が、小さなテーブルの上に置いたガスコンロを前に料理をしていた。
 どうやら、つくっているのはタマゴ焼きではなく、目玉焼きのようだ。
 グレーのジャンパーとジャージ姿。そして、ボサボサ髪の男は、沸いたヤカンの湯をカップに注ぐ。ハシで軽くかき混ぜると、食欲をそそる味噌汁の香りが漂ってきた。
 そんな朝の料理の工程を終えた男は、俺たちの存在に気づくと、旧友に挨拶するように右手を上げた。
「おおっ、トモ! きたのか。隣にいるのは彼女か? ぶはははっ、なんだ。その背中の上にいるのは! ニワトリまで育てて食うつもりか?」
 ガスコンロの火を消したボサボサ髪の男は、俺たちに話しかけながら豪快に笑った。
 トモというのは、千代丸がこの男につけられた名前だろう。俺が佐藤宅の婆さんにシマと呼ばれたり、愛奈ちゃんにチョビと呼ばれているのと同じだ。
 ただ、俺がピヨをニワトリまで育てて食うというのは当たらずとも遠からずだが、千代丸の彼女と誤解するのは、ごめんこうむりたい。
「あの方は水野さん。拙者が世話になっている方です。みんなはミズさんって呼んでます」
 千代丸は俺が彼女と言われたことを気にしていないのだろう。というより、不安で不安で仕方なくて、冗談も通じなくなっているらしい。ただ、淡々と説明をした。
「えっと……じゃあ、お前が言った、ゲンさんという人は?」
 千代丸にそう訊くと、隣のテントから男がもうひとり出てきた。額には包帯を巻いている。
 その姿を見て、すぐにわかった。この人がゲンさんなのだろう。
「トモか。丁度いいところにきたな。今、シャケを食べ終わったんだ。皮と骨をやるから、待っててくれよ」
「ゲンさん! 今日はヒヨコもいるみたいだから、米粒も持ってきてくれないか」
 ミズさんの言葉に、ゲンさんは「おうよ」と、いい返事をしてテントの中に入っていく。
 この二人からは、千代丸が言っていたほどの逼迫した様子はない。千代丸の考えすぎなのだろうか。と思ったが、彼らの生活を見て何となくわかった。
 小さなことは気にしないように心掛けているのだ。それは自由奔放に生きる、俺たち野良猫と似たような考えに思える。
「ホームレスか……そうか、お前が世話になっていたのって、ここにいる人たちだったんだな。田舎にはいないだろうから、驚いたろう」
「ほーむれす? それって、どんな方たちでしょう?」
「いろいろな訳あって、定住する場を持たない路上生活者のことだよ。境遇は俺たち野良猫に似ているな。だからここにいる人間たちは、お前を受け入れてくれたんだろう」
 俺の説明に千代丸は首を傾げる。当たり前といえば当たり前だろう。千代丸は飼われた経験がない。それに飼い猫と話をしたこともないだろう。そんな千代丸に、人間の生活の違いを理解しろというほうが無理なのだ。
 静かに待っていると、皿を持ったゲンさんがテントから出てきた。皿の上には鮭の皮と骨が載せられている。ピヨに渡す米粒は、その鮭を買った時についていたであろう白いトレーの上に載せられていた。
「俺はまだ食欲がないんだよな……千代丸。お前に皮をやるから、小さな骨だけ俺にくれ」
 ハクジャの爺さんの薬を飲んだ後遺症が、まだある俺である。今は脂分が多い物を食べると気持ち悪くなりそうだ。とはいえ、俺は魚の骨は大好きなのである。カリカリとした歯ごたえと、噛めば噛むほど味が出るのが癖になると、もうやめられない。
 千代丸は満足そうにシャケの皮を口に入れる。ピヨも米粒をつついて食べはじめた。
 そんな俺たちを見ながら、ミズさんは味噌汁をすすり、ゲンさんは煙草に火を点けた。
 人間とは不思議な生き物だ。まともな生活を送りたくて必死になって働いていたのに不遇から、今までの人とのつながりや仕事を失ってしまう者がいる。
 ここにいる者たちそれぞれが、どんな考えをもって将来を見つめているのかはわからない。ただ、野良猫の俺たちと一緒で、今を生きることには必死だ。
「もし、飼われていたら、俺はどんな生活をしていたんだろうな」
 喉に引っかからないように慎重に骨を噛みながらつぶやくと、千代丸は妙な表情をしながら俺を見た。
「拙者は今が一番幸せです。ボロス殿とも話ができるし、ミズさんやゲンさんにも優しくしてもらえているし。これ以上の幸せはありません」
「だよなあ……これ以上を望むから、つらくなるんだよな。欲というのは際限がないし。欲を持てば持つほど、つらくなるもんだ。理性が利かなくなるような欲は捨てて、何が自分にとって一番の幸せなのか、わからないと――」
 俺がそう言った時、何かが視界に入ってきた。その視界に入ってきた物は、青いテントにぶつかり、鈍い音を立てながら落ちる。落ちた物は、掌大の石だった。
「あっ、ボロス殿、あいつらです。悪い人間たちは! あの子供たちがゲンさんに石をぶつけたのです」
 千代丸が見た方向には、何人かの通学途中の中学生がいた。川沿いの道から、俺たちを見降ろすように向けられている瞳には、心地よい情は感じられない。
 好奇の目。見下すような目で見ているのがわかった。ただ、その中に、背筋に寒気を感じるくらいの強い憎しみの念を発している目があることに気づいた。
「社会のゴミどもめ。生き恥を晒しているくらいなら、はやく死ねよ!」
 そう言った少年は、俺たちに向かって石を投げつけてきたのだった。
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