蜜愛フラストレーション
四.うたかたびと

その後、ヘアアレンジまでして貰い、二十分ほどですべてが完了した。

ふわり、と肩のあたりで揺れる巻き髪は自然な仕上がり。先ほどまでテカリと乾燥に嘆いていたベースメイクは、しっとりと素肌感ある肌に変わった。
また新作と言うプラム色の口紅は、オフィス用のアイメイクに華やかさを添えるらしい。

ユリアさんの神の手によって、アラサーの疲労感は見事に消えている。

「肌のアラがない」
「当たり前よ。誰が手を掛けたと思ってるの?」

鏡をまじまじと見てその仕上がりに感動していると、私からピンク色のクロスを外しながらしたり顔をするユリアさん。
この鏡越しの視線と圧力に対して屈することのない人を私はひとりしか知らない。

それから素早くコスメなどを片付け終えたら、ふたりで部屋をあとにする。
来た道を戻って行くと、煌びやかでいて落ち着きのある店内のバーカウンターの中に足を踏み入れた。

「ねー、敦。萌ちゃんがね、あの部屋が地味で退屈だからって寝オチしてたわよ?」
「ユリアさん!」

毒舌を聞いた張本人のスタッフさんだが、ユリアさんの私情込みの発言で慌てる私にニコッと笑みを見せるのみ。おかげで毎回ペコペコ頭を下げてしまう。
ユリアさんとスタッフさんの内装を賭けた戦いは今もひそかに続いているようだ。

今日も部屋をお借りしたお礼を告げてカウンターを出た私は、先ほどまで座っていた壁際の席に着く。
ユリアさんはそのままカウンターに残りカクテルをふたつ作り始めたが、やがて作り終えると元いた席に戻って来た。

そのカクテルを手に取りふたりで改めて乾杯したら、主に美容についての話に花が咲く。
怠惰な干物は時おりチクリと針を刺されるものの、知識豊かなユリアさんの話はいつも勉強になる。

楽しくお酒を飲み始めてから十五分ほど経った頃、階段を上る硬質的な音が聞こえてきた。その足音が耳に届いた瞬間、私たちの会話は毎回そこで途切れてしまう。

同時にそのまま視線が向かうのは、それからすぐに開かれた店の出入口のドアだ。
思わず立ち上がりそうになるのを堪えて、ユリアさんの背中越しに見えたその姿から目が離せなくなる。

「萌ごめん、予定より遅くなった」

いつもの甘やかな声でこちらまで足早に近づいて来たのは、穏やかな笑みを浮かべる北川氏だ。
椅子から立ち上がり彼と向き直った私の心には、プライベートで彼と会える嬉しさが今夜もじわりじわりと押し寄せてくる。

「いいえ、今日もユリアさんが相手して下さっていたので大丈夫ですよ。お疲れさまでした」

それでも、彼の到着を今か今かと待ち侘びていたと悟られないために、仕事中との態度にあまり差が出ないよう努めてしまう。

「少しでも早く会いたくて急いで来たのに、褒めてくれないの?」

だというのに、熱を孕んだ眼差しを向けられ、甘い言葉でねだられるとこちらの調子もすぐに狂わされてしまう。
ここで隣にいるユリアさんにヘルプを求めたいところだが、こんな時はいつもお酒を飲みながら知らぬ顔を通される。

「あ、何か飲みませんか?」

強引に強引に変えようとしてみたものの、北川氏のまっすぐな眼差しと微笑は全く怯むことがない。

「今は萌の返事が欲しい」

また一歩、私の心に踏み込んできた彼の手には、会社では完璧に着こなしていたスーツのジャケットがあり、首元のネクタイも緩められている。
その姿にこれが業務外なのだと告げられている気がして、お酒とユリアさんとの会話で和んだ心はまた緩みかけるのに。

「お、お疲れ」
「それはもう聞いた」

ビジネス的にかわすつもりが途中であっけなく遮られ、求められた言葉を思案しながら口を開く。

「あ、ありが、とう?」
「もっと」
「……会えて、嬉しい、です」

ああもう負けだ。要求を払い除けられずにおずおずと言ってしまったが、その後悔も目の前で破顔する彼を見ればやはり吹き飛んでしまう。

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