ベビーフェイスと甘い嘘

『sora』では他のお客さんの目に付く所には居なかったから、会っていたとしたら『still』?いくら演奏に夢中になってたとしても知ってる人がいたら分かると思うんだけどな……


私が呟くように言った『sora』や『still』という言葉を聞くと、九嶋くんはちょっとだけ目を見開いてから、にっこりといつもの人の良さそうな笑顔を見せた。


だけど、その笑顔はちょっとだけ含みがあって……ナオキのそれとどことなく似ていた。


そしていきなり私の耳元に顔を近づけると、


「金曜日はずいぶんと楽しんでくれてたみたいだったけど。ナオキのピアノと……俺の歌声、どっちがヨカッタ?」と囁いてきた。


その瞬間、記憶が繋がった。


まさか……まさか、まさか!


「く……九嶋くんっ……」


絶句した私は、きっとあの時の九嶋くんのように目を見開きながら驚いてしまっているに違いない。

そんな私の目の前で、九嶋くんはステージの上でそうしていたように、にやりと笑いながら私に向かってドレスをつまむようなしぐさでお辞儀をした。


あの美女が、九嶋くんなの?!


あまりの衝撃に声も出せずにいると、九嶋くんは「あー、失敗した。名前も呼ばれたし、気がついてるもんだと思ってたのに」そう言って、言わなきゃ良かったなーと後悔するように呟いた。


信じられない気持ちで彼の顔をまじまじと見る。


少し細めの柔らかそうな黒髪の下にはくりっとした大きな瞳が見える。いつもニコニコと笑っている印象しかない唇は、程よく厚みはあるけど、色気や艶は全く感じられない。


その顔はずっと同僚として接してきた『明るくて親しみやすくて可愛い』九嶋くんで、どうしてもあの美女とは結び付かなかった。
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