キンモクセイ(仮)
あれから瞳人は部屋を案内し、夕食を置いて帰っていった。
私の寝室と案内された部屋には、実家の部屋と全く同じ様に家具が配置されていた。
もちろん、実家にあったもの。
クローゼットを開けると、服も鞄もそのまま入っていた。
…本当に全部運んじゃったんだ。
信じたくない現実。
でも、まだ嘘であると信じたい。
諦めが悪いとわかっていながらも、母に渡された鍵を持ってマンションを飛び出した。


見慣れた2階建ての家屋。
早くいつもの母の顔が見たい。
その一心で玄関のドアノブを回す。
ガチャガチャと入ることを拒否されたかのように聞こえる無機質な音。
お母さん、いないの…?!
ギュッと手を握りしめると、持って出てきた鍵を思い出した。
恐る恐る鍵を差し込むと、カチャリと開く音がした。
ホントにスペアキーだったんだ…。

「お母さん、いるよね…?」

リビングに入ると、テーブルの上に一枚の紙が置いてあった。
それは、母から私宛の手紙だった。

〝来春へ。
きっと貴方のことだから、藤井さんが帰られてすぐに帰ってきたんでしょう。
そんなのは嘘であってほしいと。でも、それは全て真実。
もし私たちが今回のように長期間旅行へ行っても、ひとりで過ごせるようになってもらわないとね。
と父さんとも話していたので、実行しちゃいました。
はじめは、家政婦さんを頼むこともしないつもりでした。
でもやっぱり心配で仕方ないので、藤井さんにお願いしました。
男性だから何かあったときに守ってもらえるし、来春にもしかしたら春が来るかもしれないしね。
むしろ来てほしいけど。
あ、藤井さんの写真と釣書は左の引き出しに入ってるからお見合いも嘘じゃないわよ。
じゃあ、お土産楽しみに待っててね。
母より”

私の行動を見抜いている辺り、流石お母さんだな。
でも、ちゃんと全部話して欲しかったな…。
手紙にあった通りに左の引き出しを開けると、先程会った男性の写真と「藤井瞳人」と書かれた釣書が出てきた。
お見合いまで本当なんだ…。
だとしたら、家事代行の契約云々についても彼の説明通りということだ。
私の知らないところで、私のことが動いていた事実。
いきなりのことで頭がなかなかついてこない。

「やはりこちらでしたか」

吃驚して声のした方を振り向くと、瞳人がいた。
息を切らし、ネクタイを少し緩めている。

「何故、ここに…。帰られたはずでは…」
「契約時にお母さまに言われました。
〝来春はきっと一度家に帰ってくるはずだから、迎えに行ってあげてね”と。ですから、お迎えに参りました」

母は本当に全てお見通しだ。
ここにいると知っていても走ってここまで来てくれた瞳人。
家にいなくても母は私を守ってくれる。
それがわかっただけでも安心した。

「帰りましょう、来春様」

そっと差し出された手を躊躇いなく取り、私の新しい城へ向かった。


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