かに
掌編
「蟹がね、好きなのよね」
と、彼女は言う。
細いが張りのある髪は少し赤みがかっている。瞳も黒くはない。たとえ夜でも、雨の鬱々と降る日でも、いつでも昼間の窓辺にいるように、太陽を映したような明るい茶色の瞳をしている。
肩までの髪が彼女の動きとともに揺れる。
振れる、という表現が似合うほど揺れる。
それから彼女は、本当に太陽を映したような笑顔で大きく微笑んで、一呼吸して
「蟹といっても色々あるのだけど。蟹とかってほら、こう・・・自分でフォークですくい出して噛り付くような、そういう蟹は・・・・」
と、話を続ける。

楽しそうだ。
彼女はいつも楽しそうにしている。
たとえば最近あった酷く辛い出来事を話すときでさえ、彼女はとても大仰に、悲しみと怒りを声と表情と身振り手振りにたっぷりとのせて話しきった後に、大きくため息をついて、そしてにっこりと笑う。
『ごめんなさいね。こんなつもりじゃなかったの。』と。


「最初はいいの。蟹をとても食べたい、と思っているときには。だけどやっぱりね、噛り付いて一本食べたら、満足したという訳でもないのだけど、なんだかもう、厭になってしまうのね。分かるかしら?」
そういって彼女はこちらを見て、また大きく微笑む。大きな瞳はやはり太陽を映したように明るく、白い歯並びはまるでツクリモノのように綺麗だ。艶やかなグロスが光る唇は、本当にとても魅力的だと思う。

「わたし、とてもあからさまに嫌な顔をしていたのね、手は汚れるし、口元も、ほら、頬の方も濡れたりして、若い頃ってそういうことない?そしたらね、【彼】が──」

彼女は少し目線を外す。肩越しに、僕の椅子の背のほうを通る人物をすっと目で追って再び僕を見る。

「『君もまだ、こどもだね』って」

そこで彼女は一呼吸する。僕はどうやって相槌を打とうか考える。考えている間に彼女はまた話を続ける。

「それが、すごく──。あのね、ほら、【彼】だったから良かったのね、きっと。【彼】が言った言葉だったから、その言葉はすごく私の中に残っていて、私は、『いつかは!』って思ったの」
「彼に、『こども』だなんて言わせないぞって?」
「うん」

彼女はもう十分にオトナだと思うが、僕は彼女の『その頃』を簡単に想像することができる。
まるでたった今このテーブルに向かい合っている彼女が、「次は休講よね?」とブックバンドに束ねたテキストを放り投げたとしても、少しも違和感を感じないほど。

「そう、それからね、こんなこともあった。歯が痛かったのね。とても歯が痛くて、彼から電話が掛かってきたときに、歯がとても痛むわ、と言ったら『虫歯なんだね、歯医者に行きなさい』って言われたの。『嫌よ』って答えたら『しようがないね。なら、これからケーキを食べに行こう。そしたら歯医者に行けるかい?』って【彼】が言ったのね。」
「それで歯医者に行ったの?」
「そこは忘れてしまったの。」
「ケーキは食べに行ったの?」
「行ったわよ。彼が迎えに来てくれたのよ。今どこにいるの?って、そこならあとなん分で行けるからまっててって、大きなバイクで。」

彼女はとても愉快そうに、本当にたった今その電話を切ったばかりのような嬉しそうな笑顔で言う。
僕は薄くなったアイスティーを一口飲んで尋ねる。

「どうして【彼】と結婚しなかったの?」

彼女は僕を見て、それから、人々の肩越しに店の外を見て、それから、アイスラテのストローに一瞬口をつけて、また離して、ストローをくるくるくると回す。

「そうね。」

僕は、ストローを見つめる彼女の伏せた睫をじっと見つめる。なぜ彼女の睫はこんなに黒々としているのだろう、と僕は考える。なんとかというやつだ、なんだっけ?と思う。

「そうね、ほんと、なんでかしら?でもね、これでよかったのよ、って思うのよ。」
彼女は長い睫を瞬いて、ゆっくりと僕を振り向いて笑った。その笑顔は、これまでみた彼女のどの表情よりも一番大人びていた。

「ワイシャツと、デニムが似合う男の人が好きなの、そういう男の人は恋人にしたらほんとうに素敵なのよ。父が、そうだったの。」

彼女は目を細める。
「でも、結婚しては駄目。きっと。とても寂しいから。」

僕は、何か言葉を捜す。相槌のような、当たり障りがない、けれどこの場にふさわしい言葉を。



「蟹を食べたくなったよ。蟹を食べに行こうか」






                                          終わり
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