瑠璃子
取材
どんよりと曇る空を見上げる莉奈、重たく垂れ込む灰色の空はまるで自分の心を映す鏡のようだ、
そんな莉奈の心とは裏腹に華やかで活気に満ちた街、笑顔で楽しそうに行き交う人々、幸せそうな家族連れ、若いカップル、そんな人々を眺める莉奈は思わず溜息が出てくる。
まるで自分だけが世界から取り残され、あらゆるものが自分の目の前を通り過ぎていくかのようだ。
莉奈はR出版社の記者、最近失恋したばかり。
心の傷が癒えないまま仕事をするのは正直言って辛い、仕事は仕事、私事は私事と心に言い聞かせても、つい自分を捨てた男の顔が心に浮かぶ。
全てが順風漫歩で生きてきた者に解りはしない心の傷、癒えない傷、その傷に他人は尤もらしいことを言う。
自分がその立場ならどうのなかなど考えもしない、そのくせ聞いた風なことを言う他人、そう、所詮は他人だ、あくまでも他人事として言っているだけだ、他人に心の痛みなど判りはしない、他人の痛みは何年でも我慢できる。
心の傷が癒えないまま莉奈は仕事で或る取材をしなければならない、これから取材に行く先を考えると思わず溜息が出てくる、取材は或る作家。
莉奈は作家が苦手だ、苦手と言うより嫌いと言ったほうが適切だ、その理由は変わり者が少なくないからだ。
そんな変わり者をこれから相手にしなければならない、癒えない心の傷を引きずったまま苦手な仕事をしなければならない、そう思うと莉奈は思わず泣きたくなってくる・・・。
これから相手にしなければならない作家、それは夢酔狂猿という奇怪なペンネームの作家で相当な変わり者らしい、そして不可解な存在だという。
夢酔狂猿、本名上岡健太郎、もともとは純文学系の芥川賞作家で一時はノーベル賞候補にまでになった、だが、なぜかある時点から純文学とは一切手を切りペンネームを夢酔狂猿に変える、そして映画やテレビドラマ、アニメや漫画の原作、さらにはポルノ小説など極めて猥褻且つ俗悪なものまで手掛けるアナーキーなマルチ作家に転向してしまう。
文壇からは一時、ペンネーム通りに頭が狂ったと噂されたが、なぜ彼がマルチなエンターテインメント系の作家になったかは未だに謎である、そんな彼の風変わりな経歴からか一部の文化人やマニアからはカルト的な人気を誇っている。
今では夢酔狂猿と言えばマルチなカルト作家として知られ、その作品の数々からアナーキーなイメージが持たれている、夢酔狂猿が芥川賞作家であることなどとっくに忘れ去られてしまっている。
謎と言えば夢酔狂猿はその名こそ知られた有名人だが、その知名度とは裏腹に素顔は一切知られていない。
彼は文学作家時代からメディアに取り上げられることを極端に嫌い、あらゆる取材やテレビ出演を断り続けてきた、そのため夢酔狂猿がどのような人物なのか誰も知らない謎の作家となり、その神秘性も根強い人気の要因となっている。
謎はさらにあり、最近解った事だが永らく独身主義と思われていた夢酔狂猿が、実は妻帯者であることが判ってきた。
それを知った各メディアは謎の作家の素顔に迫るべくこぞって取材を申し入れたが悉く断られてしまう、だが、どういう風の吹き回しか、それとも夢酔狂猿の気まぐれからかR出版社の取材のみ受けるとOKを出してきた。
R出版社にしてみれば謎の作家夢酔狂猿の独占取材権を得たも同然だった。
莉奈はそんな彼の経歴から、噂通りの相当な変わり者だろうと覚悟を決める。
もっとも変わり者ならこうした業界にはいくらでもいるが、夢酔狂猿のように全く素顔が判らない相手となると、莉奈にとっては初めて体験する未知との遭遇にも等しかった。
夢酔狂猿の自宅は東京都下にあり武蔵野の面影が残る比較的自然環境が豊かな小規模の街に居を構えていた。
憂鬱で泣きたくなる気分を抑えながら莉奈は夢酔狂猿こと上岡健太郎に合う。
ところが実際に会って判った事だが、夢酔狂猿こと上岡健太郎は業界の噂やメディアのイメージとは裏腹に、物静かで常識も分別も弁えた温和な人物であり、チャーミングな夫人と可愛い娘さんの三人で暮らす平凡な市井の庶民だった。
そんな上岡の家庭生活を垣間見た莉奈はとてもうらやましくなってくる。
愛する人との幸せな家庭・・・。
一度はそれを夢見た自分・・・。
だが、その夢は脆くも潰えてしまった。
人を羨ましがっても仕方がないと莉奈は取材を進めていく。
作家のパーソナリティに安心し取材を進めていく莉奈は内心首を捻りはじめる。
なぜこのような人物からアナーキーな作品や猥雑作品が生まれてくるのか不思議でならない。
リビングのテーブルを挟みゆったりとしたソファに座りながら取材を続ける莉奈。

  先生のお話をいろいろとお伺いしてきましたが、そもそもなぜ純文学から手を御引きになられたのでしょう?

夢酔狂猿こと本名上岡健太郎は、う~んと唸りながら、

  そうですねぇ・・・、私には純文学は向かいない世界と感じたからですよ。

  そうでしょうか、しかし先生は、かつては芥川賞作家であり
  ノーベル賞候補にまでノミネートされたわけです、
  とても惜しいと思うのですが・・・。

文学的才能を惜しむ莉奈に上岡は醒めた笑みを浮かべる。

  そのなんとか賞などというのは私にとってはあまり意味をなしません、
  私は物書きというか、私の本質はクリエイターなんです、
  ですから何かを創り出すことが私の生業であり、どうせ創るなら楽しいもの、
  みんなが楽しめるものを創りたいんです、
  辛気臭い重たいものではなくみんなが楽しめるもの、
  芸術性とか思想とかそんなことはどうでもいいんです、
  ともかくみんなが楽しくなるもの、
  その創り出したものをみなさんが楽しんでもらえればそれで充分なんです。

  なるほど、すると先生がメディアの取材を断り続けてきたこともそこらへんに
  理由が・・・。

莉奈の察しの良さに心なしか感心する上岡は、

  おや、貴方はなかなか察しがいいですね、
  そうです、私はクリエイターですから何かを創ってナンボです、
  創ったものを評価して頂ければいいのであって
  私自身のことなんかどうだっていいことですよ。

  はぁ、そうでしょうか。

  そうですよ、世の中を考えてごらんなさい、自動車や家電製品、
  食料品に日用品、これらは全て創り出した人がいるわけです、
  ですが、これらの商品を買う人は
  それらの商品を考案し創り出した人のことなど考えないでしょう? 
  たとえ考えたとしてもそれはメーカーでありそのブランド性です、
  買う人はあくまでも商品を評価して買う、私の場合もそれと同じなんです、
  そう言うわけですから私はメディアの取材をお断りしてきたわけです、
  私を取材するより私が創り出したものを評価していただければ
  いいわけです。

莉奈は上岡の言葉にどこか納得できないものを感じ取る、
人には多かれ少なかれ自己顕示欲があり有名になりたいという願望があるものだ。

  すると、先生は自己顕示欲というものが希薄であると?
  
  希薄どころかそんなもの全くありません、私のことより私の創り出したものが
  世に知られれば、それでいいんですよ。

本気で言っているのだろうか?
もし本気で言っているとするなら、これはこれで相当な変わり者だろう。
この極端なまでの自分自身の秘匿性には何かあると感じる莉奈は、

  なるほど、ところで先生は永いこと独身主義と思われていましたが、
  実際は御結婚されていたわけですね。

  ああ、そのことね、それは世間が勝手に作ったイメージですよ、
  私はとっくの昔に妻と結婚していたんです。

上岡の意外な話しに驚く莉奈。
  
  とっくの昔に?
  
  ええ、私が三十、そして妻は十八でした。

思いがけない話に目が輝く莉奈は、
  
  あら、そうだったんですか、奥様は随分と御若いときに・・・。

  ええ、まぁね、ですが最初の出会いはもっと昔になるんです。

もっと昔に?
すると最初の出会いは何時だったのだろうか?
男女関係に興味関心を持つのは世の御婦人方の習い、莉奈もその例に漏れずもっと詳しい話を聞きたくなる。
 
  ところで、どうでしょう? 
  よろしければ奥様との馴れ初めなどをお聞かせ願いないでしょうか。

  馴れ初めですか? そうですねぇ・・・、オフレコであればいいですよ。
  
  え、オフレコですか・・・。

上岡の条件に内心がっかりする莉奈、それではクライマックスが割愛されたドラマの様に取材の価値が半減してしまう。
 
  あのぅ、どうしてもオフレコでないと?

  ええ、その話は私の赤裸々な半生を語るものですからね。
  まぁ、私が良いとしても私の妻と娘が困ることになりますので・・・。
 
  そうですか・・・。

確かにそうかもしれない、いかに名の知れた人物と言えども男女の馴れ初めは極めてプライベートな範疇だ、悪戯に書き立てることもできない。

  わかりました、オフレコということに・・・。

上岡は莉奈を見つめると、
 
  約束ですよ。
 
  はい、お約束いたします。

上岡は煙草を一服すると、
 
  私の妻は不思議な女でね。

突然おかしなことを言いだす上岡に莉奈は怪訝なものを感じる。
不思議な女?
一体なんのことだろう?

  あの、不思議といいますと、それはどのような?

首を捻るような莉奈に上岡は笑みを浮かべると、
  
  なんていうか、そう、幸運を運ぶ女、とでも言いましょうか。

  幸運を運ぶ女?

  ええ、その通り、ただ、それは偶然と言う形で運んでくる、
  しかもその時には判らない、後になってから解ってくる・・・。

莉奈は内心、まさかと言う気持ちで聞いている。
だが、上岡は言う。

  貴方がこれから話すことを他言しなければ、きっと貴方にも幸運が訪れる。

幸運が訪れる?
わたしに?
本当かしら?
話半分に聞きながらも強い興味を感じる莉奈は取敢えず聞いてみることにした。

  そうですか、是非お聞かせください。

  いいでしょう、お聞かせしましょう、私の赤裸々な半生を・・・。

上岡健太郎が語る妻との慣れ初め、それはまさに赤裸々な半生であった。
< 1 / 14 >

この作品をシェア

pagetop