【短編】君が手を伸ばす先に
もう一度だけでいいから、
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いつからだろうか。

僕は君を知らない。

正確には、今の君を。


僕はまた、振り返るはずのない花乃を目で追っていた。
いつの間にか明るい笑顔を見せなくなった、僕の彼女を。

花乃を好きになったきっかけはごく単純なものだ。

入試の際、終わってすぐに気の抜けた僕は消しゴムを落としてしまったのだ。

しかし終わったという脱力感で拾う気にもなれなかった。
他の面々も似たようなもので、自由退出だというのにダラダラと机から動かない。

ぼけっと落ちた消しゴムを眺めていると、細い手が視界に割り込んできた。

消しゴムが、浮いた。

僕の目の前にあるそれが人によって持ち上げられたのだと気づくのが遅すぎた。

今思えば馬鹿馬鹿しくて仕方がない。

──消しゴムが浮く、なんて。

ハッとしてその手から消しゴムを受け取り、「ありがとう」と言って顔を上げた。


「いいえ、どういたしまして」

この現代にしては丁寧な言葉遣いに好感を覚えたのが一つ。
そして二つ目は、その笑顔だった。

優しそうな茶色っぽい目、そして少し傾げた首。

穏やかな笑顔だった。
人工では表せない色の、地毛であろう色素の薄い髪に縁取られ、何とも言えない柔らかい雰囲気を醸し出していた。


「終わったーって感じですよね。皆さん」

彼女はくすっと笑って周りを見回した。

「そうだね。今年は英語が殊更に難しかったし」

僕もつられて笑いながら感想を述べた。

「それじゃあ、私はこれで。また」

彼女はまたにこりと微笑み、去って行った。


入学して何日か経った頃。

「あ」

また消しゴムを落としてしまった。
今度は廊下だ。

筆箱のファスナーがきちんと閉まっていなかったのだろう。

今度こそ自分で拾おうと屈むと、先を越された。


「はいっ」

聞き覚えのある──いや、聞きたかった声だった。

「君は…」

「また会えましたね!」

「本当だね。二人とも入学できて良かった」

あえて“合格できて”と言わないのが僕のポリシーだ。

何だか相手をバカにしているようで好きではない。

彼女は少し驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに笑った。
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