それでも君が必要だ
足音を立てぬよう静かに自分の部屋に戻る。
「はあっ……」
……疲れた。
扉を開けると、カーテンの隙間から外灯の光りだけがぼんやりと射し込む薄暗い部屋。
でも、電気をつける気力が出ない。
ベッドにパタリと倒れたら、布団に沈み込む体が鉛のように重たく感じられた。
今日は本当に疲れた。
また新しい婚約者に会わされて、気に入ってもらえなくて父に蹴られたけれど、その後なぜか婚約を進めてほしいと言われてうまく進んだ。
……わけがわからない。
新しい婚約者。
シジマ工業の副社長さん。
志嶋智史さん。
あんなに無表情だったのに、キャラメルをくれた時だけは優しい瞳を見せた。
何を考えているの?
いや……。
会社のことを一番に考えているんだよね?
バッグの中に手を伸ばし、キャラメルを包んだハンカチを取り出した。
ハンカチをそっと開くと、油紙に包まれた小さなキャラメルがコロンと転がる。
副社長さん、キャラメルなんて似合わないけれど、いつも持ち歩いているのかな?
不思議な人……。
キャラメルをじっと見つめる。
お腹は空いたけれど、もったいなくて食べられない。
こんなことをされると、私はバカだから優しさだと勘違いしてしまう。
でも違うの。
これは違う。
これは優しさじゃない。
社交辞令で会社のためにやっただけのこと。
勘違いなんてしたら、傷つくだけ。
副社長さん、きっと今頃はいらない嫁を嫌々引き取らなければならないと頭を抱えているだろう。
でも、私は……。
あの黒い瞳が忘れられない。
あと少しでいい。
朝には泡のように消えてしまう夢でも構わないから、あの優しい瞳に見つめられた余韻を手放したくない。
目を閉じるとぼんやり浮かんでくる。
シーッと唇に当てた長い人差し指。
柔らかそうな髪がわずかにかかった黒縁眼鏡。
私を見つめる優しい黒い瞳。
思い出すと胸が痛む。
勘違いはしない。
でも、今は少しだけ余韻に甘えたい。
小さくため息をついて、キャラメルをまたハンカチに包み直し、そっと胸に抱き締めて体を丸めた。