熱砂の心
男は夢を見ていた。母の作った朝食のトーストが目の前にあった。なんとか五人でかけられるテーブルには、自家製の粘りのあるヨーグルトとハチミツ、コーンフレークに牛乳があった。 父はスーツを着ているが白シャツ姿でネクタイは絞めておらず、いつも急いで会社の支度をしていたのにどこかゆったりとした雰囲気であった。兄二人はというと二人とも私服であった。男は嬉しいと思った。男は今日が何曜日か考えそうになったが、あえて考えを止めた。まず始めに男は父に話しかけた。それに対して父はにっこりと微笑みながら話してくれた。たったひとことであった。その部屋には朝の静かで柔らかい光が窓一面から入り込んでいた。音はなかった。外がどうなっているか、皆の時間がバラバラなこと、そんなことは男はどうでもよかった。これがはじめから夢であることは知っていたからだ。それがとても辛かったが、男は幸せであった。気づけばいつも家で流れていたドビュッシーの月の光が聴こえてきた。あたりは次第にゆっくりと、淡く白くなっていく。暖かい夢だ。心が軽い羽になるように男の意識は上へ上へと引き上げられていく。下では楽しそうに、しかし穏やかな会話が続いている。まだもう少し、もう少しとそれに抗おうとするが、虚しくも男は全てを忘れて、白い霧を通り抜けて、全く違う世界に行くのだ。それは何のためにかはわからない、誰も知らないし知る必要もない世界であった。ただ全てが忘れて煙になり、文字通りこの世界は夢となる運命のようだ。二度と戻ってくる事の出来ない心の世界。男はその時何を思ったのかを、数秒後には忘れていた。

携帯のバイブ機能が棚の硬さにうるさい雑音を出していた。男は眼を半分開けアラームを止めるが、直ぐには起きなかった。少しすると今日の予定を頭のなかで整理し、電車の時間を簡単に調べる。そして時間をかけてゆっくり起き上がると、洗面所に向かい顔を洗い歯を磨いた。毎朝自分の顔と会わせるその作業が男は好きではないのでずっと下を向いたままである。狭いキッチンには少し古めの冷蔵庫があり、そのなかにいつも作りおきしている、バターで炒めた焼き飯が少しあったのでそれを食べることにした。この部屋に椅子はない。椅子や、それに合わした机はただでさえ狭い部屋をさらに圧迫してしまうので、あるのは低めの小さい四角の机と、低めのベッドと本棚だけ。まだまだ時間に余裕はあったが、男は携帯を触りながら急いで食べていた。通知を見ると何件か連絡が入っていた。それを見た男の箸の動きが止まる。すぐさま携帯を閉じ食器を流しにかたし、服を着替えた。いつものジーンズにいつもの革靴、革のダブルジャケット。外は今にも降りだしそうな曇天に、霧が出ていた。今日はどうやら灰色の世界に旅立つ事になりそうだと男は大きめの傘を家から持ち出した。

街を歩くその足取りは急いでいたわりにはゆっくりであった。まだ雨は降ってはいなかった。しばらく歩いていると黄色いコートを羽織った女が目に入ってきた。曇りの日には誰でも一発で見つけられるような派手な格好で。
『あ!しのさんこんにちは!ここです!』
いつも見る小柄な女が、屋根のある喫茶店のテラスにいた。
『まったか?』
『いえ!私もさっき来たところです。』
そう言うと空いたコーヒーカップがのっている机に、分厚い推理小説を然り気無く置く。それを見て男は女を待たせてしまったことなど容易に理解する。
『ごめん、寄り道はしてないから許してくれ。』
『もうなんでしのさんが謝るんですか!私が呼び出して相談にのってもらうっていうのに。』
『そうか、じゃ俺もなにか頼んでくるよ。菊池にはイチゴショート奢ってやるよ。待たせたお詫びとしてね。』
『やったあ!!あ、いや、そんな、わるいですよやっぱり!』
『やったぁが最初出たな。ほんとに正直なヤツだよ。』
『いやすいません、やっぱり悪いですよ。』
『気にするなよ、ただの気まぐれだから。』
そう言いながら男はケーキの飾られてるガラスケースを覗いた。
『ありがとうございますしのさん!私一生引っ付いていきます!どこまでも!』
にへらと笑う女に男は安っぽいヤツだと一蹴して、女は笑いを堪えようとしたがつい、笑いが溢れてしまった。そして曇り空のもと、パラソルのもと、二人は席について一息つく。
『そう言えば私がイチゴショート好きなの知ってましたっけ?言った覚えはないですが。』
『この前ホテルで廃棄するイチゴショート陰でつまみ食いしてたからな。そりゃ好きなんだろうよ。』
『うはぁ、一番見られたくない人にみられてました。』
『それでケーキ泥棒は何が困ってるのさ。』
男が話を切り出すと女は少し眉を寄せながら少し間を開け、仕切り直して話始めた。
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