優しい胸に抱かれて
 退職届を通勤鞄へ忍ばせ、[なぽり]のコースターのデザインを考える。いくつかパターンが出来上がってしまえば、あとはちくちくちくちく針と糸で地道に縫い合わせるだけ。

 
 [なぽり]は楽しい場所だった。御馴染の常連さんが集まって、仕事の依頼をされたこともあったし、お気に入りのインテリアの写メを見せてもらったこともあった。


 さゆりちゃんが入ってきたのは3年前。まだ付き合っていた頃の私たちに「お似合いです!」なんて目を輝かせていたさゆりちゃん。

 人懐っこさと要領のよさからすぐに人気者になって、さゆりちゃんに会いに来たお客さんが、試験でお休みだと知るとがっくりと意気消沈するものだから冷やかしたこともあった。
 

 部長に連れられ訪れた[なぽり]は何も変わっていなくて、気軽に声を掛けてくれる常連さんも変わってなかった。しばらく振りに食べたオムライスは蕩けるそうなくらい美味しく、それでいてマスターが何も言わず黙って頷くから泣きそうになった。


 島野さんの奥さんと初めて会ったのは半年くらい前。息抜き兼ねて晩御飯を食べに[なぽり]へ行った時、帰ったはずの島野さんが目元の皺をくしゃくしゃにさせ、会社では見ないような少年のような顔をし、対面に座る奥さんへ笑顔を向けていた。

 結婚記念日だけは子供を預け、待ち合わせをして夫婦2人きりでデートを楽しむ約束をしたんだとか。どうして待ち合わせ場所が[なぽり]なのかは、大学生だった奥さんのバイト先が[なぽり]で2人が出会った場所だからと、教えてくれた。今日の会社での話を聞いて、島野さんは仕事も家族も本当に大事にしているがわかる。



 [なぽり]にはいつだってたくさんの笑顔が詰まっていて、私が踏み込んでいい場所なのか時々考えてしまうんだ。
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