優しい胸に抱かれて
 やっとのこと1週間分の穴を埋めただけで、先の日程には手を付けていない。納品されなかった什器や製品を把握していない。場合によっては組み直しが必要になってくる。事務処理だって進んでいない。

 日下さんがまだ粘っているかもしれない時に帰るわけにはいかない。それに、佐々木さんや平っちが戻ってくるかもしれないのだ。何一つ、進んでいないに等しい。


「帰れないです」

 と、自分の席に着き、パソコン画面に目を移す。


「お前が帰らないと俺が怒られるだろ」

 誰に。なんて愚問だ。夜中でもなければ、遅いとは言えない時間。昨日よりは早い、もっと言えば金曜の夜よりもずっと早い。

「…まだ20時を過ぎたところですよ? そんなに気にしなくても…」

「明日もその疲れた顔色で出社する気か? 部下の体調管理もできないのかってまた言われるだろ」

 言われればいいんじゃないかと思うし、言いたいのだから言わせておけばいいとも思う。退職するまで帰り時間を監視されるのかと思ったら、さっさと仕事を片付けてしまいたい衝動しかない。


「お2人がなんだかんだ仲がいいのは解ってます。戯れに巻き込まないでください。島野さんこそ早く帰った方がいいですよ? 疲れた顔してます」

 眼鏡の反射は鈍く、さっきから細かい字を見るような目付きをしている。見るからに中間管理職はハード。という図が出来上がった机の上はいつも以上にごちゃっとしている。これでは、お気に入りのシャープペンの捜索願が出されるのも時間の問題。


「帰れるわけないだろ。こんな時に踏ん張らずして、いつ踏ん張るんだ。無駄な悪足掻きだろうと、恰好悪かろうが、それがあくせく働くってことだ」

「…だったら、私も帰りません」

 画面にかぶりつく私に、何かと戦ってばかりのおかしな上司は目元を微かに緩ませた。
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