優しい胸に抱かれて
「ごめんなさいっ、急いでて…」

「謝らなくていいよ。それじゃあ、またね」

「はい、ごめんなさい。また…」

 何か忘れている気がするが、ぺこっとお辞儀をし背を向ける。一歩片足を踏み出したところで、慌てて足を引っ込めた。

 記憶を呼び起こせば、あの返事をしていないことを思い出す。

「あっ、待ってくださいっ。あの…、ごめんなさい。先日の返事っ、忘れてました!」

 思ったより大きな声が出てしまい、焦って口元に手を当てたところで意味を持たない。目を見張る名前の知らない人をよそに、周りを警戒するかのように見回した。


 忘れてました。は、デリカシーのかけらもあったもんじゃない。どうなのかと自分でも思う。反省は後からのらりくらりと着いてきた。


「ごめんなさいっ。今は、そういうの考えられなくて、誰とも付き合う気はありません。お気持ちは…」

「知ってるよ。意地悪してごめんね? 今、お気持ちは嬉しいって言おうとしたでしょ? 本当は嬉しいと感じてないでしょ?」

「え…、と」

「ごめんね、困らせたくてまた意地悪しちゃった。俺も急いでるから、じゃあね」

 呆けたように口を開け、小走りで駆けていく背をぼんやりと見送った。


 きちんと伝わったのか、受け取ってくれたのか曖昧で。結局、名前を教えてもらうことなく知らない人のまま。あのあっさりした態度。好きなんだ、だなんて言われた気がしたけれど。

 私と彼のことを知っていたから、島野さんや日下さんほどではないが、からかわれていたんだと結論付ける。


「…顔に出ていたんだと思う」

「ちょっと、紗希。聞いてる?」

「うん、聞いてる。ごめん」

 細かい数字が羅列された用紙が数枚、整然と並べられている。見ただけではちんぷんかんぷんのそれを、辺りを警戒しながら順を追って丁寧に説明を受けている最中。
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