優しい胸に抱かれて
□大事なもの
 外に出ると雨が降っていた。全てを押し流すほど殴りつけるような雨。

 ゆっくりと歩を進めると、瞬く間に全身を濡らす。


 今日は朝から雨が降っていて、日下さんがタオルにケチをつけていたことを、雨の冷たさが思い出させた。

 頬に伝う熱いものは、空から降り注ぐ飛沫で流れていく。


 指輪を突き返し、走って逃げてきた。

 追いかけてはこないことを、ロータリーに停車した黒い車が教えてくれる。


 水銀灯の灯りだけでも、日頃車の手入れを怠っていないことが、ここからでもはっきりと見て取れた。水を綺麗に弾き、ボディには水玉模様が浮かんでいる。

 降りてきて黒い傘を差し、近づいてくる。本当に真っ黒が似合う人だ。


「お前は濡れるのが好きなのか? 今日は1日雨だって自分で言っていただろ。それに、鞄を忘れて帰るな。トロいくせに逃げ足は速い」


 激しい雨音に乗って届いた声に、顔を上へ動かし見向く。


 傘から紫煙が逃げ出して、雨のカーテンに消えていく。

 ハザードランプが煩いくらいに点滅した車は、何者もを寄せ付けまいと雫の粒を弾いているみたいだ。


「部長…、帰ったんじゃ、なかったんですか…?」

「煙草が吸いたくなってな。特に、お前の辛気臭い顔見たら余計にな。だから、言っただろ。その精神力の弱さをなんとかしろと。俺の部下は不器用な奴ばっかりなんだ、その程度の精神力でやっていけると思うなよ。もっと足掻け」


 一度、帰ったのかもしれないが、あの場にいたってことがなんとなくわかる。

 日下さんが『趣味悪ぃな』と言ったのは、ピンクのハートが趣味悪いんじゃなくて、部長がいることに気づいたんだ。なんとなく、そう思う。


 煙草を止めたと話していた部長が、煙を燻らしていた。傘に隠れた表情は見えないが、額に皺を寄せ愉し気に煙草を吹かしている、そんな気がする。
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