優しい胸に抱かれて

厳しい言葉通り、覚えなきゃいけないことはたくさんあって、一回で覚えられないこともしばしばあった。何度も同じ質問をする私に相変わらず怖い顔で見る。それでも、怒られることはなかった。

『理解するまで何度も何度も同じことを質問することになる。だけど、気にせず何度でも聞き来い。解るまで何度でも答えてやる』

その通り、『前にも教えて貰ったんですが…』なんて心苦しくなりながらも何回も何回も同じ質問をして、『前にも聞いたかどうか解ってるだけでも進歩だ』と、何度も何度も教えてくれる。時には用紙一枚が殴り書きだらけになった。


意気込んで購入した400ページもある大容量のメモ帳は、何をどう埋めていくか、これを使い切るまで気が長く。無駄に分厚いそれにすらプレッシャーを与えられ負けていた。

『そのメモ帳も無駄にならなくて済む』

無駄にしないために書き記し続けて5年、やっと役目を終えようとしているメモ帳の中身は、見返せばどれもこれも取り留めのないことばかりで埋められている。

何でこんなことがわからなかったのかと、首を捻ることもしばしば。落書きに毛が生えたようなデザイン画が描きかけで終わっていたり。たくさんの付箋も貼られている。


不安になったり心配が増えたりした時に中を覗けば、大丈夫だと言われているみたいで、『いつかそれに救われる時が来るから』その言葉の通り未だに助けられてた。



入社1ヶ月のあの日、相席を求められていなかったら。もし断っていたら。諦めていたら。

きっと私は今、ここにはいなかった。大事な物を見つけられないで同じことで悩み続けていたかも知れない。

『もっと笑えば、もっと楽しくなる』

仕事が難しくても楽しいということが、人とお腹を抱えて笑い転げることも、取引先の相手と自然に打ち合わせできることも、それらたくさんの喜びを最初に教えてくれたのは彼だった。


あの日、出せなかった退職届は今も机の奥で眠っている。
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