優しい胸に抱かれて
□昨日と同じ
 変わらない彼の姿から逃げだした休憩所の、目と鼻の先にある作業場へ戻ろうとする足を呼び止める大きな声。

「柏木。おいっ、単細胞。返事くらいしろ!」

 どうしてうちの建築士たちはこうも口が悪いのだろう。狭いフロアに少し高めの声が響く。


 どうやら私は、接触を避けたかったうちのもう一人から呼ばれているらしい。

「おい、って無視かよ!」

 無視していると言われれば否めない。どちらかといえば、振り返る勇気がない。

 よっぽど癇に触ったのか、私を追い越し立ちはだかった日下さんはじろりと目を凝らす。

 くっきりとした瞳を平らにし目力に物を言わす。3年振りに私の前に現れた日下さんの、目つきの悪さは懐かしくもあった。

「お前に嫌われてるのはわかってる。だけどな、呼んでるんだから無視するんじゃねぇよ」

「無視してるつもりはありません。足が止まらなかっただけです」

「足が止まらなかったって、それを世間一般では無視って言うんじゃねぇのか?」

「…すみませんでした」

「しっかし、相変わらず疲れる女だな。だけど、…元気そうだな」

 彼の出向より、1年早くにいなくなった日下さんがどこまで知っているのか伺い知ることはできなかった。この様子なら全てを聞いているのだろう。

「はい、元気です。日下さんも元気そうですね。それだけですか?」

「…何だよ、その態度? まだ根に持ってんのか?」

「根に持ってるのは日下さんじゃないですか?」

 うんざりした様子を見せる日下さんに、私は思いきり笑顔を作る。ちょっとだけ怯んだ体の横を通り過ぎ、自分の席に座る。


 ちなみに日下さんは彼と同期だから29歳。彼女はいないと思う。

「おい、お前。何なんだよ!」

 後に続く日下さんの荒げた声が作業場に響く。それを止める島野さんが日下さんの肩を掴む。

「止めておけ、無駄だ」

 3年前、出向が決まった日下さんから投げつけられた言葉があまりにも正論で、でもそれをきちんと受け止められなかった。


『お前が邪魔してるんだよ』


 日下さんは、接触を避けたかったうちの一人だった。よりによって同じ課の私の上司だ。

 いつまで部長の掌で転がされれば気が済むのだろう。

 人事は前川部長の一存で決定された見事なまでの配置に、それぞれに無言のプレッシャーを与えている。
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