ほとんどパラダイス
いつの間にか、中村上総(かずさ)さんの顔の前に垂らしていた薄い紗の布が上がっていた。

思った通り、いや、予想以上に綺麗な白い顔に私は度肝を抜かれた。

「は。あの。大丈夫です。私は。峠くん?大丈夫?」

峠くんは黙ってうなずくと、私に鍵と財布を差し出した。

右側に上総さんの手、左側に峠くんの手。

「あらあら。両手に花ねー。」
松尾教授が、楽しそうに言った。

「いや、そういうん、ちゃうやないですか!もう!」
気恥ずかしくて、どっちにも手を出さず、松尾教授を睨んだ。

すると上総さんが、よそ見してる私の手を強引に握って軽く引き上げた。

ひやっ!

無理に立たされてバランスを崩した私の腰を、上総さんのもう1つの手ががっちりホールドした。
「細いなー。ちゃんと飯食ってる?」
そう言いながら、上総さんの手がさわさわと動く。

やらしい!……んだけど、驚き過ぎて文句も言えず、私はただ、上総さんに抱かれて呆然としていた。


「かずさーん!何やってんの!危ない~、すっぽん、上げて~!」

上から降ってきた声に、中村上総丈は、肩をすくめた。

「はいはい!こっちも案内してたんだよ!ねえ?」

上総さんはそう言いながら私から手を放し、再びすっぽんを上げた。
そして、別のスイッチを入れて、周囲を明るく照らすライトをつけた。

あ、ちゃんと明るくなるんだ。
当たり前なんだろうけど、ちょっとホッとした。

「舞台の奈落はもうご覧になりましたか?」
上総さんが松尾教授に尋ねる。

「ええ。せり上がり体験もさせていただきました。楽しかったー。次は、噺家(はなしか)さんによる歌舞伎の説明なんですけど……」
松尾教授は、ちらっと上目遣いに上総さんを見て図々しいおねだりをした。
「私達はけっこうですので、楽屋の見学をさせてもらえません?」

……おいおいおい。

「いいんですか?巡検の学生はともかく、野田教授をほっといても。」
野田教授は、東京の大学から学生を引率してきた先生で、ご専門は近世美術、とりわけ陶磁器を得意としてらっしゃる。
卒論で茶道具を扱う私としては、イロイロ教えを乞いたいのだが……いかんせん、体育会系な熱いかたで、はっきり言えば、苦手かもしれない。

形式的に一応そう聞いてみたけど、松尾教授はカラカラと笑った。
「大丈夫大丈夫。15分ぐらい説明あるんでしょ?姿が見えなくても、休憩してる程度にしか思わないわよ。ねえ?上総さん?」

上総さんは、首をコキコキいわせて回しながら、あっさり言った。
「いいですよ。どうせ今日は誰もおりませんし、空き部屋ばかりでおもしろくないでしょうが。私の役目はこれで終わりなので、ご一緒に参りましょうか?」

「わー、ありがとうございます!サインももらえます?色紙もってないんですけど。」

調子のいい松尾教授に眉をひそめる様子もなく、上総さんは私たちを楽屋に案内してくれた。
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