ほとんどパラダイス
驚いて、声のしたほうを見ようと、目をこらした。
暗くて誰かいるように見えない。
上からの灯りで、松尾教授の姿は見えるのに。

そろそろと暗いほうへ移動しようとすると、柔らかいものにぶつかった。

「うわっ!」

男の声。
でも、さっきとは違う声みたい。

「誰?」
「……峠(とうげ)です。」
少しくもったぶっきらぼうな返事がすぐ前でした。
そういえば、そんな名前を名簿で見た気がする。
東京の系列大学から、実習旅行の巡検で来てる学生の1人だ。

その時、上から光が降り注いだ。
まるで天から階段が降りてきたかのように、光が射し込み、続いて花道の一部、つまりスッポンが下がってきた。

「昔は人力でしたが、今は電力で、こんな風に上げ下げしてます。」
まことしやかに説明する声は、先程のエエ声。

前を見ると、すぐそばに、やや濃い顔のイケメンがいた。
ジッと見つめ合う。
今の、君の声じゃないよね?
峠くん?

「すっぽんが降りてきますので、もう少しこっちにいらしてください。」
笑いを含んだ声が響いた。

あ、こっちだ、エエ声。
さらに奥を見ると、黒子(くろこ)さんが1人、機械のボタンを押していた。

なるほど!
黒い格好してるから、全然見えなかったのね。
納得して、もう一度しげしげ見た。

……あ……かっこいい。

「ほんまですねえ。顔を隠してはっても、美は伝わってくるって、ご自分のことなんですね。」

もしかしたら薄布を上げた顔は不細工かもしれない……なんて、露ほども思わなかった。
黒子の格好でも隠し切れてない、長い足、すらりとした体躯、佇まいが既にイイ男!

あ、目の前の峠くんも顔だけはかっこいいんだけど、彼には近づきがたい硬派な威圧感があるのよね。
昨日から京都中の巡検につきあって、夕べは親睦会というか飲み会にも参加させられたけど、峠くんは、何てゆーか、無頼派?
独りで黙々と飲んでいて、女子に話しかけられても、ろくに返事してないように見えた。

でも、この黒子は、逆。
華やかで明るい空気は、どれだけ黒い布で覆い隠しても、伝わってくる。

「……役者さんですか?」
大道具さんや、裏方さんも、黒子になるけど、この人の華は舞台上こそふさわしい気がした。

「三階ですが。中村 上総(かずさ)と申します。13代目の弟子です。」
三階とは、三階役者の略で、まあ、下っ端の役者さんだ。
歌舞伎という厳然たる階級社会では、本人の努力や資質以上に、血脈が物を言う。
どんなにイケメンでも、よっぽど人気が出るか、有名な役者さんの芸養子にでもならない限り、本舞台では端役しかできない。
・・・が、彼は、極々一部の下剋上しつつある有名な人らしい。

「まあぁ!上総さん!今日は、お手伝いに駆り出されはったんですか!?どうも、すみません!ありがとうございます!・・・紫原!」
面食いの松尾教授が年甲斐もなく声をピンクにしている。

「本日は、ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
巡検の先々で、松尾教授の斜め後ろで頭を下げて、レジュメを配るのも、このバイトの業務の1つだ。
私は四角四面にそう言って、鞄からレジュメを取り出した。
クリアファイルの角が引っかかったらしく、家の鍵と中身の軽いお財布が鞄から飛び出て床に落ちた。
・・・慌てて拾おうとしてしゃがんだら、いち早く腰をかがめて拾い上げてくれた峠くんとおでこをぶつけた。

「痛っ!」
「・・・悪ぃ。」

いやいやいや。
峠くん、悪くないし。
むしろ、私がお礼を言わなきゃいけないのに。

口を開こうとしたところで、別の白い手が目の前に差し出された。

「大丈夫?」
そう言ってから、黒子の上総さんがクスッと笑った。
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