となりの専務さん


「……なんてね。冗談だよ」

私がなにか言うよりも先に、響さんは無表情でそう答えた。



……じょ、冗談? まぁ、冗談ならいいんだけど……。


なんか、口調も表情も、ちょっと本気に見えた。不思議。それまでと同じ無表情だったのに……。


その後、壁の応急処置をするために、私はいったん部屋に戻った(なんとなく、一応玄関から……)。
だけど、部屋に戻ったあと、響さんに言われた『結婚してくれない?』を思い返して、なんかちょっと、ちょっとだけ……ドキドキしてしまった。
た、ただの冗談なのに! なぜか、一瞬でも本気っぽく感じてしまったから!
……“あれ以来”、恋愛をしてこなかったからなぁ、私……。だから恋愛経験値が低くて、こういうことでもすぐにうろたえてしまうのかもしれない……。



……さて。
その後、私の引っ越し用の荷物から、百均で買ってあった予備のカーテンを取り出し、ハサミでそれを裁断し、壁の穴部分にカーテンを充てがい、私の部屋側から画びょうを刺して固定し、形だけは穴を塞いだ。塞いだ、なんて立派な表現は全く合ってないかもしれないけど、少なくとも、お互いの部屋は見えない状態にはなった。
こんな安い処置をしたところで、その気になれば簡単に侵入できるけど……。


……でも、なんとなく響さんはそういうことはしない人だと思った。
出会ったばかりの男性を信用しすぎだろうか。人を信用しすぎて私もいつか債務者に逃げられるようなことがあるかもしれないとも思う。

ちなみに、アパートの一室に画びょうで穴を開けていいものかとも思ったけど、「これだけ大きな穴開けといて、画びょうの穴気にするの?」と響さんにツッコまれた。確かに、どうせ修理するのだからそこはあまり気にしなくてよかったかも。


「で、ではお休みなさい。本当に、申しわけありませんでした!」

カーテンの処置が終わったあと、私はもう一度、玄関から響さんの部屋に伺い、改めて頭を下げた。


「そんなに何度も謝らなくていいよ。君が気にしなければ、俺はしばらくこの状態でも構わないから」

響さんはそう言ってくれた。
うぅ……やさしい人だ……。本当にごめんなさい!



ーー……

次の日から内定式までの二週間、私は長野の祖父母の家に行き、お父さんとお姉ちゃんともいっしょに過ごしていた。
内定をもらってる関係でアルバイトもできず、それならお父さんとお姉ちゃんのそばにいて、私にできることはなんでもやりたいと思った。
お父さんの具合は思ったよりはよさそうで、ひとまず安心した。
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